天皇器官説

天皇は脳髄、官僚は神経、臣民は細胞!

天皇器官説

天皇器官説序論

 

 

天皇器官説

 天皇器官説(てんのうきかんせつ)は、大日本皇国の1972年憲法にて成立した憲法学説で、現在の皇国連邦を構成する国家群における基本的な国家観である。1947年憲法の象徴天皇制と日蓮主義を翻案した生命弁証法を理論的起点とし、2度の安法闘争と三体事件を経て平岡公威がそれらを一つの体系として再構成し、1972年憲法にて国家理念へ発展した。

 「天皇は脳髄、官僚は神経、臣民は細胞」の言葉に代表されるように、「国家」を一つの「生命体」と見做し、「生存(自己保存)」延いては「増殖(自己複製)」を究極の国家目標とする有機的国家論(国家有機体説)のひとつである。

 天皇器官説の成立過程において重要なのは、化成天皇が昭和天皇と田中角栄の統治を、それぞれ精神による統合と物質による統合として看破したことである。化成天皇はこの二つをともに国家統合の一形態として認めながら、いずれか一方を究極的原理とすることを退け、両者を包摂する第三の原理として「生命」を掲げた。生命弁証法と三体を結合することで、この構想は天皇器官説へと発展した。

 

思想的背景と日蓮主義

 天皇器官説の思想的前史には、戦前戦中の日本で広まった日蓮主義がある。

 日蓮主義の中心概念である立正安国は、正法を人々の人生および社会の基本原理として確立することによって、国家の平和と繁栄、人々の生活の安穏を実現しようとする思想であった。本土決戦期には、戦禍による絶望と国家存亡への危機感を背景として人口に受容された。

 この思想的環境は、戦後の象徴天皇制および生命弁証法の形成にも影響を与えた。ただし、1947年憲法において日蓮の教説がそのまま国家原理となったわけではない。日蓮主義における「個人の変革と社会の変革を一体として捉える」という構造が憲法起草に携わった里見岸雄*1の手によって生命弁証法へと変換されたのである。

 

象徴天皇制

 昭和天皇は、大日本皇国憲法において天皇を「臣民の象徴」として規定した。これは、本土決戦によって生じた昭和天皇の政治観と密接に関係している。

 1945年8月15日の京都への反応攻撃は、すでに継戦派軍部に失望していた昭和天皇に、和平派の政治家や連合国に対する失望をも抱かせた。結果として日本は本土決戦へ突入し、石原莞爾の戦争指導の下で総力戦体制を構築し、連合国軍の関東上陸作戦を頓挫させて停戦に至った。

 しかし昭和天皇は、本土決戦における臣民の献身を評価しながらも、かつて熱烈に開戦を支持した臣民への不信を完全には払拭できなかった。そこで昭和天皇は、戦前の立憲君主でも、大戦末期の親裁天皇でもなく、天皇自らが道徳的模範となることで臣民に自己規律を強制する存在となった。昭和天皇は清廉、勤勉、節制、公共への奉仕などを自ら実践し、それによって臣民にも同様の徳目を要求した。

 この当時の象徴天皇制は、日蓮主義における「立正安国」の思想と結びつき、国家の再建を政治権力だけでなく構成員自身の人格的変革によって達成するという性格を帯びた。これは同時期の生命弁証法にも共通する。

 

生命弁証法

 生命弁証法は里見岸雄によって体系化された思想であり、天皇器官説の理論的基礎となった。

 生命弁証法は、生命を静的な存在ではなく、内部に異質性と対立を抱えながら、それらを統合することで自己を維持、発展させる運動として捉える。生命には、変化し続けることによって自己を維持する、また環境に影響を受けながら環境にも影響を与える、という一見矛盾した構造がある。

 その基本的な運動は、「分裂 → 調和 → 統合」として理解され、統合された生命はさらに新たな分化と対立を生み出すことで発展するとされた。

 生命における統一とは、部分の差異を消滅させることではない。異なる機能を持つ諸部分がそれぞれの役割を果たしながら、一個の全体として活動することが生命の本質であるとされた。従って、社会を「個人の集合」とは考えない。「個人→家族→地域→民族→国家→世界」という諸段階は、それぞれ孤立した存在ではなく、お互いに影響を与え合うより大きな生命的全体を形成する階層として理解される。ここから自由主義とは異なる人間観が導かれる。ただし、1947年憲法において日蓮主義がそのまま国家原理となったわけではない。日蓮の教説を直接的な宗教政策として採用するのではなく、人間の自己変革と国家の変革を連続したものとして捉える思想が生命弁証法へと転換された。

 1947年憲法における生命弁証法は、象徴天皇制と同じく日蓮主義的国家観に強い影響を受けたものであった。

 しかし、後に安法闘争を経て日蓮主義が衰退し、三体諸原理が登場し、さらに第三次世界大戦を経験すると、生命弁証法は日蓮主義の宗教的国家論から離れ、国家そのものの構造と存続を説明する理論へと発展していくことになる。

 

昭和天皇、精神の指導原理

 昭和天皇は、1945年の日本本土決戦を経て成立した戦後の大日本皇国において、自ら天皇を象徴と規定しながら、天皇大権を有し、国家再建の基本方針を主導した。臣民には清廉と勤勉を求め、戦争によって疲弊した社会の再編を道徳的、経済的再建と一体のものとして進めた。政党を廃止し、山崎猛に大命を降して政権を組織させたことにより、天皇が国家の長期的方針を示し、内閣がこれを具体的な政策として実施する戦後政治の枠組みが形成された*2。

 内政上の最大の課題は、本土決戦によって甚大な損害を受けた国土と生産基盤の復旧であった。都市、交通網、工場、農地等の損壊に加え、労働力と物資の不足が重なったため、政府は軍需施設の民需転換、鉄道、港湾、電力、住宅等の復旧、復員兵の生産部門への吸収を進めた。食糧事情も逼迫していたことから、戦後初期には米国から穀物を中心とする食糧支援を受け、配給制度を維持しつつ農業生産の回復を図った。これにより、飢餓と社会不安の拡大を抑え、経済復興に必要な労働力を確保した。

 昭和天皇は全国各地への行幸を行い、戦災都市、農村、工業地帯、学校、復興施設等を視察した。行幸は復興状況の確認にとどまらず、戦時体制から復興体制への転換を臣民に示す象徴的行為でもあった。労働者、農民、学生、復員者等との接触を通じて勤労を顕彰し、清廉と勤勉を戦後社会の規範として定着させることが図られた。

 復興初期には傾斜生産方式を採用し、石炭、鉄鋼等の基幹産業へ資源を重点的に配分した。これによって生産設備の復旧と重工業の再建を促した一方、資源配分の偏重から消費財不足と通貨膨張を招く弊害も生じた。その後は経済格差の是正と生産力の拡大を並行して進め、大土地所有や資本の過度な集中を抑制するとともに、農民、労働者、中小企業を含む広範な臣民が経済成長に参加できる社会構造を形成した。重化学工業、鉄鋼、電力、化学、機械工業等への投資に加え、高等教育、技術教育を拡充し、原子力、基礎科学、航空、電子工学等の研究開発を推進した。これらの政策が1955年以降の急速な工業化と復興、そして高度経済成長の基盤となった。

 昭和天皇の外交は、太平洋協定による安全保障への参加と、日本独自の外交的自主性の確立を両立させることを基本とした。朝鮮戦争以前の日本は、再軍備を進めながらも周辺諸国から再侵略への警戒を受けており、その軍事力を国際的管理の下に置く必要があると考えられていた。

 朝鮮戦争時の合衆国は、満洲に50発の反応攻撃が行った*3。この核攻撃はソ連の参戦を招き、戦争を米ソ両国の通常戦力を中心とする長期的な消耗戦へと転化させた。中国も甚大な損害を受け、米中ソの3国が疲弊した結果、極東には大規模な力の空白が生じた。

 一方、昭和天皇は朝鮮戦争に際して、独断で旧朝鮮臣民保護を掲げて皇宮衛士総隊を警察予備隊に改称の上、朝鮮半島へ派遣した。この独自の軍事行動は、天皇が自らの判断で国外に軍事力を投入する意思を有することを示すものであった。これは周辺諸国にとっては、日本の再軍備が再び対外侵略へ転化する可能性を示す事件でもあり、日本への警戒を強める結果となった*4。

 この相反する要求、すなわち日本を外部から防衛する必要と、日本による再侵略を防止する必要を制度化したものが太平洋協定であった。1951年に署名され、1952年に発足した同協定は、日本を巡る二重保証、つまり「日本防衛」と「対日防衛」を二つの柱とした。日本軍は日本の防衛に必要な戦力として存続を認められる一方、その運用を国際的な監視、管理の下に置くことによって、再び日本単独の意思で侵略戦争を行うことを防止された。

 昭和天皇は、この体制を日本の恒久的な従属とは捉えなかった。太平洋協定の枠内で安全保障上の義務を履行しながら、日本独自の外交関係を拡大し、アジア及びアフリカ諸国との連帯を追求した。とりわけアジア及びアフリカ会議への参加は、日本が合衆国を中心とする集団安全保障体制に属しながらも、植民地主義からの独立を求める諸国と協調し、平和を希求する姿勢を示すものであった。朝鮮戦争に呼応して1954年から1958年にかけて断続的に発生した台湾海峡紛争への太平洋協定の枠内での日本軍出動も、地域の安定に寄与し、合衆国を始めとする西側諸国から評価された。

 また昭和天皇個人は、インドのネルー、ユーゴスラヴィアのチトー、エジプトのナセル、インドネシアのスカルノらとの関係を深め、西側陣営と東側陣営の対立から一定の距離を置く第三世界外交を展開した。日本は太平洋協定の加盟国でありながら、第三世界に対して自らを単なる西側諸国の一員としてではなく、アジアにおける独立した大国として提示したのである。

 こうした外交姿勢は、日本が再軍備を進めながらも、必ずしもかつての帝国主義的膨張へ回帰しているわけではないことを示す役割を果たした。さらに、日本は合衆国の通常戦力が朝鮮戦争によって疲弊する中、新たに獲得する反応戦力と再建された通常戦力を用いて極東の安全保障を担うようになった。

 その象徴が1954年11月3日のゴジラ作戦である。日本は合衆国の黙認の下、独自の反応兵器の保有に成功した*5。戦後8年での反応兵器保有は世界に衝撃を与え、中ソ両国をはじめ、太平洋協定加盟国を含む太平洋戦争期に日本の侵略を受けた諸国から強い反発を招いた。しかし合衆国が通常兵力の再編に努める中で、日本は極東の防衛能力を担う国家として急速に重要性を増しており、太平洋協定各国は合衆国からの圧力で日本の反応兵器保有を追認した。

 昭和天皇は反応兵器保有によって得られた軍事的地位を、直ちに米国への従属強化へ結びつけることなく、自主外交の基盤として利用した。日本は太平洋協定に参加しながら第三世界との関係を拡大し、東西両陣営の間で独自の外交的地位を形成した。この姿勢が加盟国から評価されるにつれて、日本を再侵略の危険から恒久的に監視する必要性は相対的に低下した。

 その帰結が1960年の太平洋協定改定であり、「対日防衛条項」が削除された。これによって、日本軍を国際管理下に置き、日本による再侵略を防止するという第二次戦間期初期の制度的枠組みは大幅に縮小された。日本は太平洋協定によって防衛される国家から、太平洋地域の安全保障を自ら担う主体へと転換したのである。

 昭和天皇の外交は、こうして日本の軍事的自立と国際協調を同時に追求した。太平洋協定から離脱するのではなく、その内部で日本の地位を段階的に引き上げ、第三世界との連帯を外交的資産として利用することによって、第二次戦間期の日本を国際管理の対象から地域秩序の主体へと転換した点に特徴があった。

 昭和天皇の統治は、内政、外交政策の双方で、1947年憲法前文における「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」し「恒久の平和を念願」する精神を実践したと言える。

 

60年安法闘争と三体綱領

 戦中から戦後にかけて強い影響力を持った日蓮主義に対しては、その国家観を批判する動きも形成された。特に、国家の存立と妙法蓮華経を直接結びつける思想が問題とされた。

 1960年には、1947年憲法に残された仏教的、日蓮主義的要素をめぐる憲法論争が激化し、安法闘争*6へと発展した。

 安法闘争は1947年憲法そのものを否定する運動ではなく、国家統合の根拠を仏法から切り離し、より世俗的且つ政治的、国家論的な原理によって再構成することを求めた。

 この結果、日蓮主義は1947年憲法の直接的根拠から後退した。しかし、生命弁証法に組み込まれていた人格的変革と社会的変革の連続性は維持され、生命弁証法は次第に宗教的国家論から離れて、国家そのものの構造と存続を説明する理論へと向かった。

 安法闘争の思想的総括として、1961年12月12日、川南豊作らによって三体綱領が提唱された。

 三体は、国体観念、主体思想、全体主義から構成される。

 

 国体観念は、国家の歴史的連続性を認識する原理である。皇統、歴史、伝統を通じて国家の同一性を把握し、国家を現在の政府や制度だけでは説明できない歴史的存在として捉える。

 主体思想は、国家を外部から作用を受けるだけの客体ではなく、自らの意思によって行動する主体として捉える原理である。国家自らが存立条件を認識し、目的を定め、それを実現する能力を持つことを要求した。

 全体主義は、国家を個人や集団の単純な集合ではなく、それらを包摂する一個の全体として把握する原理である。個人、家族、地域、職能、企業などはそれぞれ固有の機能を持ちながら、国家という全体の中で相互に結合するとされた。

 三体は、それぞれ以下のように整理される

 

 国体観念――過去から現在への国家生命の記憶

 主体思想――現在から未来への国家生命の意思

 全体主義――全細胞と全体との国家生命の感情

 三体綱領は、日蓮主義に代わって国家そのものを説明する世俗的な原理を提示したが、この段階では三体綱領と生命弁証法はなお別個の思想潮流であった。

 

第三次世界大戦と生命弁証法の転換

 1962年に第三次世界大戦が勃発すると、こうした思想状況は決定的な転換を迎えた。

 東京核撃と昭和天皇の崩御は、本土決戦以来形成されてきた国家的神話に重大な衝撃を与えた。本土決戦では日本国家が滅亡の危機から生還したのに対し、超大国による全面反応戦争は、国家機構のみならず皇統そのものを一挙に失わせ得ることを示したのである。

 この経験によって、日蓮主義的な救済と国家使命の結合は、国家の具体的な存続を保証する原理として不十分であると考えられるようになった。

 一方、生命弁証法は新たな問題を獲得した。生命が自己を維持するだけでなく、次の生命へ自己を継承する存在であるならば、国家生命もまた現在の国家そのものを超えて自己を継承する構造を必要とする。

 ここから、国家機能と皇統を単一の領域に集中させるのではなく、複数の国家へ分化させることによって国家生命を保存するという、後の侵略主義につながる発想が生まれた。

 

田中角栄、物質の指導原理

 第三次世界大戦後、昭和天皇の崩御に伴って田中角栄が急速に台頭した。田中は第三次世界大戦と化成豪雪*7によって甚大な被害を受けた国土の復興に尽力し、基幹産業への投資、交通網整備、大規模公共事業、地方開発などを推進した。地域、職能集団、産業集団などへ利益を配分することで巨大な支持基盤を形成し、強力な政治手腕によって政界に多数派を形成して長期政権を維持した。

 田中政治は、昭和天皇期から続く高度経済成長を引き継ぎ、日本に急速な経済発展をもたらした。その統治原理は、公共投資によって産業と雇用を拡大し、所得を地域集団、職能集団、産業集団へ配分し、そこから生じた需要を再び生産と投資へ還流させる利益の循環にあった。政治的統合を理念や制度だけでなく、物質的基盤によって実現した。

 田中の国土政策は、すでに進行していた全総を基礎として、その規模と速度を大幅に拡大するものであった。日本列島改造論の下で、高速道路、新幹線、港湾、空港、電力網、工業基地などが全国的に整備され、人口と産業の地域的分散が進められた。

 その中でも特徴的だったのが、平和的核爆発の大規模利用である。日本では核兵器の開発、保有によって蓄積された核技術を軍事目的だけに限定せず、巨大な地形改造や土木事業に転用する構想が発展した。田中はこれを国土改造の新技術として積極的に推進し、通常の土木工事では長期間を要する山岳の開削、運河建設、港湾造成などに平和的核爆発を利用した。

 その代表例が三国峠の開削である。平和的核爆発によって峠を大規模に掘削し、関東と日本海側を結ぶ交通路を短縮するとともに、発生した大量の土砂を佐渡島との陸続き化に利用した。これは単なる交通施設の建設ではなく、山岳地形そのものを国家的交通体系に適合させる事業であった。同じ思想から琵琶湖運河の建設も進められた。平和的核爆発を利用して大規模な掘削を行い、琵琶湖を日本海側と太平洋側の物流体系へ組み込むことで、内陸水運を国土交通網の一部として整備した。こうした事業によって、日本列島の山岳、湖沼、河川、沿岸部は従来の地理的制約としてではなく、相互に接続可能な国家的生産基盤として再編された。平和的核爆発は、田中政治において核技術と経済開発を結びつける象徴となった。反応戦力によって国家の安全を確保すると同時に、その技術を平時の国土開発へ転用することで、軍事力と経済成長を一体化させる構想であった。

 この国土改造は、生命弁証法における「新陳代謝」の具体化とも解釈された。古い交通障壁や地理的分断を破壊し、そこへ新たな交通路、産業、都市を組み込むことによって、国土そのものを一個の国家有機体として再編するのである。

 首都は化成改元とともに東京から京都へ移転されていたため、田中は京都を中心とする多極的な国土構造を整備した。東京は首都機能移転可能都市(副首都)として再建され、人口は第二次戦間期の規模の概ね半分程度に抑えられた。大阪も復興したが、京都へ人口を供給する巨大な衛星都市としての性格を持った。副首都はその後も整備され、1972年に北京都、福京府が、1980年に西京都が置かれた。1989年には仙京府が指定されることになる。これらは首都機能の代替拠点として行政、軍事、産業、学術などの機能を集積した。1965年9月1日には本土復帰を果たしたばかりの旧沖縄県の那覇市も南京都に指定されており、琉球州の政治、経済、交通上の中枢となった。

 田中期の外交政策は、太平洋協定だけでなく国際連合における日本の地位の上昇とも結びついていた。

 1963年、第三次世界大戦後の国際秩序再編に伴って国際連合安全保障理事会が大幅に改組され、日本、オーストラリア、インド、ブラジルが新たな常任理事国に選出された。一方、合衆国とフランスは常任理事国としての地位を凍結され、ソ連は国際連合から除名された。これによって安全保障理事会は、第二次世界大戦の戦勝国を中心とした旧来の国際秩序から、戦後のアジア、太平洋、南アメリカを含む新たな勢力均衡を反映した機構へと変化した。日本はアジアの主要国として国際連合と太平洋協定の双方において中心的地位を占めることとなり、田中外交はこの二つの国際機構を使い分けながら日本の影響力を拡大した。特にオーストラリア、インド、ブラジルとの常任理事国協調は、田中外交における第三世界政策の重要な基盤となった。昭和天皇期の第三世界との連帯は、田中期には国際機構における共同意思決定と安全保障協力へ発展し、日本はアジア・アフリカ・ラテンアメリカ諸国を結びつける中心的役割を担った。

 田中は太平洋協定における日本の主導権確立を外交政策の中心に据えた。昭和天皇が太平洋協定への参加と第三世界との連帯によって日本の自主性を確立したのに対し、田中は第三次世界大戦によって生じた国際的な力関係の変化を利用し、太平洋協定そのものを日本の外交的影響力を行使する機構へ転換した。第三次世界大戦によって日本はソ連の主要な攻撃対象となったため、対ソ安全保障は外交政策の前提であった。一方、旧新潟県出身である田中は感情としては、第二次世界大戦によって日本が受けた新潟核撃への対米報復を重視し*8、合衆国の太平洋における影響力を縮小させ、日本を中心とする地域秩序の形成を目指した。

 この方針を決定的にしたのが東西戦争*9への介入であった。1964年の東京湾事件を契機として、田中政権は太平洋協定軍を北米へ派遣した。内戦を合衆国の国内問題として処理するのではなく、合衆国の太平洋における政治的、軍事的影響力を解体し、戦後の太平洋秩序を再編する機会と位置づけたのである。

 日本軍を中心とする太平洋協定軍は北米に展開し、当初は、治安維持を中心に担ったが、ロバート・F・ケネディ大統領が北爆やチャミザル紛争を引き起こし、カナダやメキシコを紛争に介入させると、1969年に元合衆国副大統領リチャード・M・ニクソンを擁立してアメリカ合州国を建国させ、合衆国を打倒する為の軍事介入を本格化させていく。これは日本が外国から防衛される側から、国際秩序そのものを軍事力によって再編する側へ移行したことを示す事件となった。1971年の国際連合アルバニア決議が採択され、合衆国が国連から脱退、ソ連との関係を模索すると、1972年には合衆国を太平洋協定から追放し、代わって合州国を加盟させた。さらにハワイ以西の合衆国太平洋領土を日本の勢力下に置き、1973年に北米から撤退したことで、田中が掲げた対米報復は一応の完了をみた。

 田中期には反応兵器外交も積極化した。日本は対ソ連戦略の一環として反応技術の国際的拡散を進め、1964年にはユーゴスラヴィア、1974年にはインドへの反応技術移転を行い、タイ王国に対しては、クラ運河建設を持ちかけた。

 この政策は平和的核爆発による国内開発と表裏一体であった。日本国内では核技術を国土改造、能源、産業に利用する一方、国外では反応技術を供与することで第三国の戦略的自立を支援し、ソ連に対抗する国際的勢力を形成した。反応兵器は田中外交において、抑止力であると同時に経済、技術、外交を結びつける手段となった。インドネシアとフィリピンが国際連合と太平洋協定を脱退してマラヤ連邦と結成したマフィリンドは地理的にマラッカ海峡を独占している為、海上交通路に依存する日本にとっての長年の懸案であった。1974年のクラ運河建設開始は、マフィリンド率いる国際連邦との対決を見越したものである。

 1972年2月、田中は中華人民共和国を電撃訪問した。同年5月には中華民国を太平洋協定から除名し、日本軍は台湾へ侵攻した。これによって蒋介石の大陸反抗は頓挫し、日本は中国大陸をめぐる戦後秩序にも直接的な影響力を行使することとなった。

 田中の外交政策は、化成天皇が求める対ソ報復と衝突した。第三次世界大戦では、日本軍が留釧の壁を突破して蝦夷島全域を解放し、択捉島まで進出した。しかし得撫島への上陸作戦ではソ連軍部隊による反応自爆によって日本軍上陸部隊が壊滅し、北進は停止した。皇族側にとって樺太島、千島列島の完全解放は未完の戦争目的であり、ソ連への報復こそが戦後秩序を完成させる課題であった。これに対して田中は、国際連合、太平洋協定、反応兵器外交、北米介入を組み合わせ、まず合衆国の太平洋における影響力を排除することを優先した。

 田中にとって戦後秩序とは、日本が国際機構と軍事力を掌握して自ら国際環境を形成することであり、皇族側にとっては第三次世界大戦の未完の戦争目的を完成させることであった。

 この相違は外交政策の対立を越え、国家の最終的な政治主体をめぐる対立へ発展した。

 1972年10月23日の新憲法制定は、田中の権勢を削ぐ結果となった。この結果引き起こされたのが田中命脈問題であり、物質的成長と利益循環によって形成された田中政治を、天皇器官説と三体の下でいかに制度として継承するかが焦点となった。

 

全細胞共闘と70年安法闘争、三体の再発見

 1968年5月27日に田中政治への反対と改憲を巡り、全細胞共闘*10が結成されると、生命弁証法と三体の語彙は再び政治的意味を持つようになった。凡ゆる徳目を実践していた昭和天皇の悲劇的な末路は、日蓮主義への疑念となり、その日蓮主義の影響を受けた憲法への疑念となった。化成天皇はそこに目をつけ、改憲議論を喚起した。仏教界は反発したが、田中にとって数ある支持母体の一つに過ぎず、また大衆迎合主義的な側面を持つ田中は、この改憲議論の高まりに指導力を発揮できなかった。

 1969年1月18日の東大安田講堂事件、1970年6月14日から始まる70年安法闘争を経て、平岡公威による第二次三体事件に至る過程で、三体綱領は三体基本則と呼び変えられ、単なる過去の政治綱領ではなく、生命弁証法と結合し得る国家理論として再発見された。1970年11月25日、平岡公威は陸域侍衛隊市ヶ谷基地で演説し、象徴天皇制、生命弁証法、三体基本則の理論的統合を提唱した。

 

天皇器官説

 天皇器官説は、生命弁証法を基礎として形成された国家有機体説の一種であり、国家を一個の生命体として把握する憲法学説である。その成立過程は、1947年の大日本皇国憲法における生命弁証法と象徴天皇制、1960年の60年安法闘争、1961年の第一次三体事件、1970年の70年安法闘争と第二次三体事件を経て、1972年の憲法改正によって制度的に完成した。その基本命題は、国家を固定した法的共同体ではなく、分化と統合を繰り返しながら存続する生命体とみなすことにある。生命弁証法の「分裂、調和、統合」は、国家においても同様に作用する。社会は個人、家族、地域、職業、企業などへ分化するが、それらは相互に連関し、国家というより高次の統一体を形成する。この構造を表現したのが「天皇は脳髄、官僚は神経、臣民は細胞」という命題である。天皇は国家生命を統合する中心器官であり、官僚機構は国家意思と情報を各部へ伝達する神経系、臣民はそれぞれ固有の機能を担う細胞とされた。したがって、天皇は国家の外部に立つ絶対的支配者ではなく、国家生命の内部において全体を統合する中心的器官である。この構造を政治原理として定式化したものが三体基本則である。1972年の憲法改正によって、天皇器官説はこの三体基本則と象徴天皇制、生命弁証法を統合する国家原理として明文化された。

 天皇器官説は、当初、国家の究極目的を「生存」に求めた。しかし1962年の第三次世界大戦は、その概念を根本から変化させた。反応兵器によって都市、政府、産業、人口、さらには皇統までも一挙に失われ得ることが明らかになったためである。第三次世界大戦における昭和天皇の崩御は、一個の国家に国家機能と皇統を集中させることの危険性を明らかにした。日本そのものの予備の必要性が叫ばれたのである。

 導き出されたのは、生命が自己を複製することによって継承されるのであれば、国家もまた自己を複製することによって存続し得るという考え方である。

 ここから、国家生命を一つの領域や一つの政治機構に集中させてはならないという考えが生まれた。人口、文化、産業、技術、行政能力、皇統などを複数の地域に分散させ、一部が破壊されても国家生命全体が再生できるようにする。増殖とは、衛星国を確保することではない。日本を複製し、人口、皇統、文化、産業、技術、行政能力、軍事能力など、国家を国家たらしめる諸要素を複数の地域に移植する。例えば大日本皇国本国が完全に破壊された場合にも、別の地域に形成された予備によって日本そのものを維持、再生できるようにするのである。

 従って増殖の第一義的目的は衛星国の建設や領土拡張ではなく、国家滅亡に対する冗長性の確保にあった。その基本論理は、単純明快である。

 一つの日本が滅びても、別の日本が再生する。故に日本を複数の場所に存在させなければならない。

 日本を母国家とし、海外領土に皇族を送り込み、国家機能と皇統を備えた複数の「皇国」を形成する発想が生まれた。

 重要なのは、日本の国家生命を外部へ複製することである。土地を占領することだけでは増殖とはいえない。占領地域に日本の政治制度、行政能力、産業、人口、文化、皇統との関係を移植し、そこに日本の国家生命を維持できる構造を形成して初めて増殖が成立するとされた。そのため、日本の対外膨張は「本土を中心として周辺地域を支配する」という同心円的な帝国建設とは異なり、日本そのものを複数の地域へ分散配置する政策として説明された。この思想において、海外への進出は本土から外へ向かう一方向の拡張ではない。

 本土に存在する日本を、外部へ移植する → 予備を形成する → 予備を自立可能にする → 必要に応じて日本と統合するという循環であった。

 この思想が初めて本格的な制度として実施されたのが、1972年の旧合衆国構成州ハワイ州であった。合州国から譲渡された布哇は、直ちに本土へ併合されたのではなく、まず夏威夷庁として外地に編入された。その後、布哇は夏威夷臣民君主国へ移行し、最終的に布哇皇国となった。この段階的な発展には、増殖の考え方が反映されていた。すなわち、新たに獲得した地域を最初から本土と同一化するのではなく、まず日本の国家生命を移植するための独立した器官として形成し、その行政能力、経済基盤、人口構造、文化的統合を発達させる。そのうえで、十分な生命力を獲得した段階で新たなる皇国として独立するのである。布哇は単なる衛星国ではなく、海外に初めて形成された日本の予備であった。この制度は後に、臣民君主国を経て皇国化するという海外統治方式の原型となった。

 第四次世界大戦では、皇国は外満洲を除くウラル以東のソ連連邦構成主体の内、ザバイカルSSR領域と極東SSR領域を獲得した。戦後にはアジア通貨危機を契機として、マフィリンド紛争によって国家機構が解体されていた南アジア東部*11へ支配を拡大し、各地に臣民君主国を置いたうえで、条件の整った地域を皇国として再編した。こうして天皇器官説は、核戦争に対する国家の生存戦略から、国家生命そのものの予備を外部へ拡大する増殖戦略へと転化した。

 

化成天皇、生命の指導原理

 化成天皇は、昭和天皇と田中角栄の統治を一つの対照として捉えた。

 昭和天皇は、大日本皇国憲法で天皇を臣民の象徴として規定し、自らの清廉と勤勉、節制、公共への奉仕を臣民に強いることに成功した。田中角栄は、基建投資や大規模公共事業を通じて特定の職能集団、地域集団、社会集団に利益を分配し、政界では買収と恐喝の政治手腕を以て自派閥を拡大し、常に多数派を形成した。

 それぞれを精神と物質による支配と看破した化成天皇は、両者を包摂し、相互作用させ、全体として維持、超克する、生命としての指導原理を選択した。

 精神も物質も、それ自体では生命全体を説明できない。精神のみを絶対化すれば、国家の物質的基盤を軽視することになる。物質のみを絶対化すれば、国家を利益配分の機械へと還元することになる。

 この思想的転換によって、生命弁証法は単なる哲学から国家の統合原理へと発展し、三体基本則はその生命を国家の構造として記述する枠組みとして再評価された。

 国家は保存されるべき機械ではない。不断に変化し、自らを更新し、環境へ適応し、必要に応じて構造を変えなければならない。したがって政治の目的は、既存制度を永久に維持することではなく、国家生命を健全な状態に保つことである。

 1973年の石油危機以後、行政、産業、財政などの再編は「新陳代謝」として正当化された。古い制度を単純に破壊するのではなく、その機能を分析し、必要なものを残しながら新しい構造へ移すことが国家の生命活動とされた。1974年10月9日の田中命脈問題は、天皇器官説の実践的性格を示す事件となった。

 化成天皇は田中政治を国家統合上の病理として認識する一方、その経済的、行政的機能まで否定することはなかった。田中を直ちに政治から排除するのではなく、なお政権を担わせたことは、政治的妥協ではなく、部分を排除するのではなく全体の中に位置づけ直すという生命弁証法における「新陳代謝」の実践として理解された。事実、田中は内政においては日本列島改造論に基づく全総を軸に引き続き強力に改革を推し進め、外交では国際連合常任理事国の政治指導者として国際連邦との冷戦を遂行した。1980年代以降の行政改革にもこの用語が用いられた。

 生命体において、一つの器官が全体と緊張関係にあるからといって、それを即座に切除することが全体の利益になるとは限らない。重要なのは、各器官の機能を維持しつつ、生命体全体の均衡を回復することである。

 同時期には編入された旧ハワイ州や今後増加が見込まれる海外領土を念頭に内務省を拡大し「適応免疫」の概念が治安維持に導入された。国家は外部環境から刺激を受け、それを識別し、国家生命にとって有害なものに対して防御しなければならないとされたのである。

 11月1日の結束主義体制成立、11月4日の第四次世界大戦勃発を経て、化成天皇は国家生命の統合をさらに中央へ集中させた。同年12月24日には「いわゆる田中氏の政治的影響を一切排除する」と宣言し、二階堂進へ大命降下し、かつての昭和天皇を思わせる親政による戦時体制へ移行した。この親政は、天皇を国家の外部に置く絶対君主制とは異なっていた。天皇器官説において天皇はあくまで国家生命の中心器官であり、官僚機構、臣民、軍、産業、地域社会から情報を受け取り、それを統合して国家意思を形成する存在である。

 

新陳代謝と適応免疫

 大日本皇国期には、生命体としての国家を維持するため、社会そのものにも生命現象の概念が適用された。

 「新陳代謝」の名の下に、社会保障制度の大幅な再編、資源配分、生命の選別などが行われ、国家にとって有用な機能を維持することが政策の基準とされた。

 また、国家生命が外部環境に適応する機能は「適応免疫」と呼ばれ、対外的な警戒主義、排外主義と結びついた。これは後に、大日本帝国以来の拡張主義と結合し、天皇器官説の持つ排外的、膨張主義的側面として批判されることとなった。

 

思想史的意義

 天皇器官説の成立過程は、単純な君主制の発展として理解することはできない。

 その出発点には、戦前戦中の日蓮主義があった。そこから、立正安国に含まれていた人格的変革と国家再建の思想が、1947年憲法における象徴天皇制と生命弁証法へ転換された。

 安法闘争は、その宗教的基盤を国家理念から切り離し、三体綱領は、日蓮主義に代わる世俗的な国家論を提示した。

 第三次世界大戦と昭和天皇の崩御は、国家を単一の政治体として維持するだけでは不十分であることを示し、生命弁証法を国家の自己維持、自己継承の理論へと発展させた。

 そして田中角栄の台頭は、国家統合における「物質」の力を明らかにした。これに対し、昭和天皇は「精神」による統合を体現していた。

 化成天皇は、この二つを対立する二つの統治原理として捉え、いずれかを選択するのではなく、両者を生命の内部に包摂した。そこから、生命弁証法と三体綱領を象徴天皇制に結合するという思想的再編が生じた。

 

総論

 従って天皇器官説は、日蓮主義→1947年憲法の象徴天皇制、生命弁証法→昭和天皇による精神の支配→安法闘争による日蓮主義の排除→第一次三体事件→第三次世界大戦による断絶→田中角栄による物質による支配→化成天皇による精神と物質の超克→第二次三体事件→1972年憲法による天皇器官説の成立という思想史的過程の上に成立した。

 その最終的な命題は、国家を権力機構でも個人の集合でもなく、自己を維持し、分化し、適応し、統合し、さらに自己を複製する生命体として捉えることである。

 母国家(大日本皇国)から分化した娘国家群(皇国群)は、生命弁証法における「分裂」に相当する。しかし分裂は単なる解体ではない。娘国家同士が相互に結合することによって「調和」を形成し、それらがさらに一つの政治的全体へ統合されることで「統合」が成立する。

 1999年8月13日に発足した皇国連邦は、この理論を制度化した。

 本稿では、かつてのドイツ国の国家社会主義とも比較されるこの狂気の思想及び運動を、第二次世界大戦の一局面である日本本土決戦と合衆国による反応兵器使用まで遡り、3度の世界大戦と3人の日本の指導者、3つの理論を中心に論じた。

 2000年代以降、大日本皇国を中核とする皇国連邦は、スラヴ復讐主義を掲げる両スラヴィア、アーリア人至上主義を掲げる統一バーラトとの熾烈な冷戦を遂行していた。皇国連邦及び両スラヴィアの反応兵器保有数の水準に統一バーラトが達した時、3国は他2国の連合を恐れ、無限の反応軍拡の坩堝に陥った。後の歴史は諸氏も知るところである様に、3国は、あの忌々しい第六次世界大戦を引き起こし、世界人口の半数を殺傷して滅亡した。

 今回は皇国連邦の天皇器官説を取り上げたが、しかし、もしもあの時、3国の内、1国でも「生存」した場合でも、その人類史は、今と同等かそれ以上の暗く冷たいものになっていたであろう。

 


(カール・レーフラー/「天皇器官説」より抜粋)

 

 

 

 

*1:日蓮主義の創始者田中智学の三男。

*2:内閣を介した間接的な統治ではあるが、開発独裁の一種と見做される。

*3:第二次世界大戦の日本本土決戦において日本を無条件降伏に追い込めなかった当時の合衆国の政治的敗北は、同国の国際的威信を大いに傷つけた。この失点を挽回するために共和党政権でありながら、前任の民主党トゥルーマンの外交政策を概ね受け継いでいたデューイ大統領は、連合国軍総司令官マックアーサー元帥の無謀な進言が受け入れた。

*4:また国際世論を考慮して当時派兵の可否で紛糾していた国内においても大いな衝撃を以て受け入れられ、山崎政権の昭和天皇への従属姿勢がより明確なものとなっていった一方、第二次戦間期の日本が自主外交を模索する契機となる。一部ではこれを後の三体綱領における主体思想の起源と見る主張がある。

*5:山崎首相は、このゴジラ作戦の成功を花道に内閣を総辞職した。後任は重光葵。

*6:「安法」は「立正安国」の「安」と「妙法蓮華経」の「法」に由来する。

*7:1962年(昭和37年)11月末から1963年(化成元年)2月初めまで、約1か月にわたり瑞穂州加賀県を中心に悠紀州から主基州にかけての広い範囲で起こった雪害。

*8:他にも海上交通路の保持の観点から台湾や合衆国太平洋領土の獲得も就任早期から視野に入れていたとされる。

*9:第二次アメリカ内戦

*10:「細胞」という名称そのものが、社会を生命体の構成単位として捉える思想を反映していた。

*11:第二次世界大戦中の連合国の呼称は東南アジア。日本は歴史的経緯からこの呼称を嫌う。

第一次朝鮮戦争

第一次朝鮮戦争(だいいちじちょうせんせんそう、朝: 제1차 한국전쟁/조국해방전쟁/第一次韓國戰爭/第一次祖國解放戰爭、英: Korean War Ⅰ)は、第二次世界大戦後に独立した朝鮮民主主義人民共和国で発生した大規模な反乱「朝鮮動乱」へアメリカ合衆国が介入し中華人民共和国が全面参戦したことで発生した、朝鮮半島の主権を巡る国際紛争。紛争当事国の中国満洲へ50発の反応兵器が使用された。ソヴィエト連邦が参戦したことで、「キューバ事変」以前で最も第三次世界大戦へ近づいた瞬間とされる。

 

略史

1950年6月25日、朝鮮人民軍の一部将校が「大韓民国」を自称し蜂起した。朝鮮動乱の勃発である。反乱は瞬く間に半島各地に拡大した。李承晩を「大統領」に据えた反乱軍は、急速に勢力を強め、一時は半島南部ほぼ全域を掌握するも、同年9月までに釜山一帯へと敗走した。

アメリカ合衆国は、ハリー・S・トゥルーマン*1が対日戦争での失点を補うべく介入を決意し、国連多国籍軍を結成した。国連軍による仁川上陸作戦は成功し、朝鮮人民共和国軍を中朝国境地帯付近まで追い詰めた。ヨシフ・スターリンは、毛沢東に日本軍国主義の復活と中国への戦火の拡大を忠告し、中華人民共和国の朝鮮戦争参戦を促した。

中国人民志願軍の突然の参戦は戦線を大きく押し戻し、朝鮮動乱は「朝鮮戦争」へ発展した。米軍の満洲に対する大量の反応兵器使用(中国側呼称: 満洲大屠殺、日本側呼称: 満洲核撃)は、ソ連の参戦を引き起こした。

1949年に反応兵器保有に成功したソ連は、米国との間に核抑止を機能させた。疲弊した国連軍はソ連軍の猛攻の前に西朝鮮を失陥、半島は東西に分断された。戦線は膠着し、1953年7月27日に米ソは朝鮮戦争休戦協定に署名し休戦に至ったが、東経127度線付近の休戦時の前線が軍事境界線として認識され、西朝鮮による朴正熙暗殺事件から始まる第二次朝鮮戦争を経て、漢江の壁崩壊で西朝鮮が東朝鮮に併合されるまで、朝鮮半島は東西2国による分断状態が続くことになった。

 

前史

第二次世界大戦終盤のソ連対日参戦によって当時の大日本帝国は満洲へソ連軍の侵攻を受けた。局面が日本本土決戦へ移る中で、大陸では日本軍が居留民を置き去りに各地で遅滞戦闘を展開するも敗北し、満州、朝鮮、北支はソ連軍によって「解放」された。

朝鮮半島は、1945年9月6日までに全土が占領され、同日中にソ連の監督下で臨時政府「朝鮮人民共和国」が樹立された。日本本土決戦にて極東ソ連軍が壊滅し、八路軍が第二次国共内戦を戦う中、空白地帯となった朝鮮人民共和国では激しい権力闘争と搾取、弾圧と恐怖主義が横行し、治安が崩壊しつつあった。苛烈な統治に対し農民の反乱や将兵の抗命が続発し、当局は「大邱十月事件」や「済州島四月事件」、「聞慶虐殺事件」等に代表される虐殺で応えた。1948年9月9日に金日成首相の下で「朝鮮民主主義人民共和国」が建国された。

 

反乱作戦「暴風」

1950年6月25日、朝鮮民主主義人民共和国首都漢城にて朝鮮人民軍一部将校が反乱作戦「暴風」を発動し、「大韓民国」を自称して蜂起した。反乱は都市部を中心に各地に波及し始め、後に「朝鮮動乱」と呼ばれる大規模な内乱が始まった。

暴風作戦は、まず少数の反乱軍部隊で首都漢城を電撃的に占拠し金日成ら高官を処刑、事態を宣布して同調する軍人や民衆の蜂起を待ち、全土を掌握した後に米国の庇護下で再度独立を達成する、というもので、作戦を立案した反乱の首謀者は地下に潜伏していた民族主義活動家の李承晩。尚、米国はこの情報を反乱勃発まで掴めていなかった。

決起部隊は漢城を占拠するも、金日成を発見することができず*2、仕方なく軍高官らを処刑し「民主主義革命」を宣言、米国へ庇護を願い出た。米国大統領ハリー・S・トゥルーマンは直ちに、対日戦争に於ける自らの失点*3を取り戻す為に、犬猿の仲であるダグラス・マッカーサー元帥と結託して朝鮮動乱への介入を決意した。

 

革命の頓挫と国連軍結成

「大韓民国」運動は瞬く間に全国へ波及した。各地で軍人や民間人を徴集、糾合し、急速に拡大した。「大韓民国」は反乱将校から民族主義者、農民、致日派*4、自由主義者、中道左派、政治犯等、多様な人々が「反朝鮮民主主義人民共和国」で大同した。彼らは日本時代に建設され当局が利用している庁舎や家々を破壊し、共産主義者(と思しき人物)らを殺害して回った。しかし工業地帯の集中する北部では朝鮮人民共和国軍によって反乱は直ちに鎮圧され、朝鮮半島は大きく南北に二分された。

6月27日、北部の掌握に失敗した大韓民国は、朝鮮人民軍の濃密かつ無差別的な砲撃の前に首都京城を放棄し、大日本皇国に対して山口県に亡命政府用の収容避難場所の建設を要請した。

 

6月27日に開催された安保理は、北朝鮮を弾圧者と認定、「その行動を非難し、軍事行動の停止と軍の撤退を求める」国際連合安全保障理事会決議82が可決された。賛成したのは9カ国で反対国はおらず、唯一棄権したのは社会主義国で当時ソ連と対立していたユーゴスラヴィアだった。

「私は、もし『大韓民国運動』が崩壊するのを許したならば、共産主義者の指導者たちが勇気を得て、私たちの国に近い国々を転覆させ、彼らの国の我々に近い人々を弾圧するようになると確信していました。もし、共産主義者が自由世界の反対を無視して民主的な示威行動を弾圧することが許されるならば、どの小国もどの人々も、より強力な共産主義者の国家からの専制と隷従、圧迫と偏狭に対抗する勇気を持てなくなるでしょう。このようなことが許されれば、第二次世界大戦と同じように、第三次世界大戦が勃発することになるでしょう。私は、この残虐な民間人への攻撃を阻止しない限り、国連の基盤と原則が危機にさらされることは明らかだと思いました。」

──トゥルーマンの本決議案への考えの説明より

翌日には朝鮮人民軍が民間人を大量に殺害しながら京城を回復し、遠からず反乱軍は殲滅されることになると思われた。

 

7月7日、国連安保理は、朝鮮民主主義人民共和国弾劾、武力制裁決議に基づき「韓国」を防衛するため、加盟国にその軍事力と支援を統一部隊に提供するよう求め、アメリカにその司令官の任命を要請する国際連合安全保障理事会決議84を賛成7 : 反対3で可決した*5。これを受け、マッカーサーを司令官とする米軍25万人を中心として、英連邦諸国、さらにタイ王国やコロンビア、ベルギーなども加わった国連軍を結成し、7月30日に国連安保理も国際連合安全保障理事会決議85を賛成9 : 反対0 : 棄権1で可決して国連軍の司令部を承認した。尚、この国連軍に常任理事国のソ連と中華民国は含まれていない。当初、大日本皇国は参加しなかったが、国連軍の後方基地として国内の軍事基地を提供した。

 

釜山橋頭堡と日本の介入

寄せ集めであり且つ職業軍人の数で劣る大韓民国は組織的な抵抗が行えず敗走を繰り返し、進撃する朝鮮人民軍の前に釜山周辺へ追い詰められた。

国連軍による大規模な強襲上陸作戦が急速に準備されている中、大日本皇国政府は劣勢の大韓民国に援軍を送るようアメリカ合衆国から要請されるも、後方基地の提供を引き合いにこれを拒否し続けた。8月10日、昭和天皇は自身の私兵である禁衛府皇宮衛士総隊を「警察予備隊*6」と改称した上で釜山に派兵した*7。

 

現地へ到着した警察予備隊は、即日戦地へ投入された。反乱が各地で鎮圧され、自分たちにとって余りにも遅過ぎる国連軍に絶望していた韓国軍は、突然の元宗主国の参戦に士気を持ち直した。韓国軍が総崩れに陥る中で、警察予備隊は朝鮮人民軍との戦闘で南進を一時停止させ、3日間の軍事的空白の時間を生んだ。結果的に、韓国軍が勢力を巻き返すための貴重な時間を稼ぐことが事ができた。

 

仁川上陸作戦と中国人民志願軍

1950年9月15日、マッカーサー個人により発案され、マッカーサー個人の信念によって実行に移された極めて投機性の高い仁川上陸作戦(暗号名: クロマイト作戦)は、戦況を一変させた。朝鮮人民軍の補給を寸断、各地で包囲し、中朝国境地帯付近まで敗走させた。民主主義国家統一朝鮮「大韓民国」の建設は目前と思われた。

10月19日、国連軍が平壌を解放したその日、鴨緑江を渡り26万を数える中国人民志願軍(抗美援朝義勇軍)が朝鮮半島へ進撃を開始した。後方待機を含めると100万を超える大部隊であり、当時トゥルーマンやマッカーサーは「中華人民共和国の大規模介入はソ連が世界戦争を決意しない限りあり得ない」として全く予期していなかった。

この中国の参戦を以て朝鮮動乱は「朝鮮戦争」へ発展した。

国連軍はマッカーサーの杜撰な作戦指揮によって大敗を喫した。

先立つ11月晦日、トゥルーマンは朝鮮戦争に於ける反応兵器使用を示唆する。

進撃を続ける中国人民志願軍の圧倒的な人海戦術を前に「米軍最大の敗走」を余儀なくされたマッカーサーと本国のトゥルーマンは、追い詰められた末にある結論に至った。

 

満洲核撃

3月20日、アメリカ合衆国は中華人民共和国東北部(満洲)に対して50発に及ぶ反応攻撃を行った(満洲核撃)。中華人民共和国は、大日本帝国に続く第二の戦争被爆国となった*8。都市、軍事基地、幹線道路、港湾等の重要目標50箇所が標的とされ、当時の中国東北部の推定人口約2000万人の内、少なくとも1000万人*9が2-4ヶ月以内に死亡した*10。中ソの航空戦力は壊滅し、中国人民志願軍の補給線も消滅した。米海兵隊と国府軍50万による義州上陸作戦を実施して中朝軍を包囲殲滅し(第三次国共内戦)、3月24日までに中朝国境地帯(鴨緑江)を大規模に突破した。

マッカーサーは、効果的な反応兵器使用により当時半島内に存在した全ての中国人民志願軍及び朝鮮人民軍部隊凡そ1000万人*11を包囲殲滅したと主張した。本作戦実施前、マッカーサーはかねてからの持論「中国を1年間で屈服させる新しい構想」を各所で繰り返しており、24日にはいつの間にか10日間に短縮されたそれを根拠に一軍司令官としては異例の「軍事的情勢判断」を発表した。事実上の対中最後通牒であり、中国のみならずソ連をも大いに刺激した。

大量の反応兵器が投下された満洲のみならず華北、モンゴル、ソ連極東、朝鮮半島に至る広域で放射能汚染と甚大な健康被害を齎した。

この事件には極めて強い国際的非難が浴びせられた。この身勝手な虐殺は、東側諸国だけでなく英仏といった同盟国からも糾弾され、一時は創設間もない北大西洋条約機構(NATO)の存続すら危ぶまれた。国連軍の中には、英連邦諸国やタイ王国等、戦争から撤退する国も見られた。

結論として、この無謀な民間人虐殺は米国になんら優位を齎さなかった。在庫をほぼ吐き出して極めて高額な兵器を多数用い、民間人を不当に虐殺し、土地に取り返しのつかない汚染を齎しながら敵野戦軍を殲滅した。しかし、直後にソ連参戦を招き、「解放」した半島の半分を失うことになる。この事実は米国を震撼させた。日本を無条件降伏へ追い込めず、中国を粉砕したらソ連が参戦してきた。反応兵器はただの巨大な爆弾か、或いは極めて面倒臭い爆弾である、と認識を改めた。このことは、戦後米国が通常戦力の回復に努め、反応兵器拡充が鈍化したことで、本来の反応技術、工業生産能力では圧倒しているはずである反応兵器後発のソ連と、1962年時点でほぼ同数の反応兵器を保有することになり、第三次世界大戦(米ソ戦)での実質的な敗北とそれが齎した内戦に至る最大の要因となった。

 

4月6日、スターリンはハバロフスクに9発の反応兵器を移送するよう指示した。

 

ソ連参戦

中国が総力戦体制へ移行する中、4月10日、ソ連が全面参戦した。4月22日の春季攻勢で国連軍主力を突破し、朝鮮半島北部へ雪崩れ込んだ。国連軍は蓋馬高原の一部を除き北部朝鮮を失陥したが、絶望的な戦闘を繰り返し、最終的な撤退に成功した。初の米ソ両軍の戦闘であり、「キューバ事変」以前で第三次世界大戦に最も近づいた瞬間とされる。

この戦役でマッカーサーは戦死した。彼独自の理論に基づいて満洲にて陣頭指揮を行なっていた為、流れ弾に当たって死亡した説や、マッカーサーの幕僚であり、戦後すぐに日本へ亡命した情報将校チャールズ・アンドリュー・ウィロビーがその死に何らかの形で関与したとの説があるが、後者に関しては身柄を保護した日本が公式の説明を行なっていない為、闇に包まれたままである*12。

疲弊した国連軍は、ソ連軍の春季攻勢の際し辛うじて撤退に成功していたが、その後も続くソ連軍の濃密な砲撃と連続した無停止進撃の前に敗走を重ね、遂に漢城を手放した。ソ連の攻勢は留まる気配がなく、国連軍は7月29日のソ連軍夏季攻勢で西部朝鮮を全て喪失する。

尚、ソ連参戦後、両軍共に反応兵器は用いなかった。現在では、ハバロフスクに配備されたソ連の反応兵器により、米国との間に相互抑止が働いた為と考えられている。

 

膠着

西部朝鮮失陥後、国連軍は京城(大日本帝国の影響を色濃く残す大韓民国は漢城を日本統治時代の名で呼称する)解放作戦を実行するも漢江北岸の解放に留まる。1951年夏以降、戦線は膠着し、間もなくソ連国連大使ヤコフ・マリクの提案から休戦が模索され始めた。

1952年1月8日、李承晩線(東経127度線)が朝鮮半島を南北に走る白頭大幹に凡そ沿う形で提唱された。4月28日、太平洋協定が発効。日本軍を中核に発足した太平洋協定軍は、発足初日に朝鮮半島に派遣された。5月25日、米国が糸を引いた政変「釜山政治波動」で李承晩が失脚すると、張勉が大統領に就任、国名を「東朝鮮過渡政府」に改めた。米国に指示を受け作戦を立案したのは、朴正熙*13陸軍作戦本部次長である。李承晩一派は臨時首都釜山から、1950年6月に大日本皇国の山口県阿武町に作らせた収容避難場所へ逃れ、大韓民国亡命政府を宣言した。

6月23日、国連軍はかつて大日本帝国が建設した水豊堰堤を爆撃した。完成時東洋一の規模だったこの堰堤は堅牢で、発電設備の大部分は破壊されたが、堰堤の損傷は僅少だった。国連軍は、同年9月12日から翌13日にかけて大量の爆弾を投下し、水豊堰堤を破壊した。大量の水が下流へ流れ込み、中国遼寧省の安東市を始め、鴨緑江沿岸の街を飲み込み、夥しい死者を出した。中国人民志願軍の補給を断ち、膠着する半島の戦況を好転させしむる為の作戦だったが、前線は動かず10-600万人とも言われる死者行方不明者を出しただけに終わった。当時、鴨緑江中国側には、米国の満洲核撃による難民が多数滞在していたとされる

1953年に入ると米大統領選挙によってロバート・タフトが大統領に選出され、ソ連ではスターリンが死去した。両者は急速な歩み寄りを見せ、7月27日、京城にある旧朝鮮総督官邸「景武台」にて米ソの間で休戦協定が結ばれ、李承晩線を軍事境界線とし、3年続いた戦争は一応の終結を見せ停戦となった。あくまで国連軍(米国)とソ連間の合意であり、半島全土の主権を主張する東西朝鮮と国土に50発の反応攻撃を受けた中国は休戦協定に参加していない。その為、第二次戦間期から第四次世界大戦を通して中朝連合軍と東朝鮮は厳密には戦争状態にあり、幾度も国境紛争を繰り返した。

朝鮮半島はそれぞれ唯一の正統政府を名乗る二つの勢力「朝鮮人民共和国(西朝鮮)」と「東朝鮮過渡政府(東朝鮮)」によって東西に二分され、両国の首都もまた東経127度線付近の漢江を境に京城(北ソウル)と漢城(南ソウル)に分断される。3年に渡って半島全土を破壊した戦争はこうして終結した。

尚、済州島は1953年の第一大邦丸事件を受けた大日本皇国が「懲罰的軍事行動」として占領、後に併合した。

 

 

 

総括

 

西朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)は、国内に於ける圧政の末路として、国土の半分を失った。金日成は党内での地位を失い、八月宗派事件で亡命する。元々日本統治時代の工業地帯を有してはいたものの、産業基盤が貧弱でソ連の衛星国の性格が強かったが、第三次世界大戦以降は、中ソ両国への依存を深める。

東朝鮮(東朝鮮過渡政府)は、大韓民国(韓国)から分離した一派で、釜山政治波動で実権を握った。その国土は山がちで産業が育たず、軍事政権が続き世界最貧国の一つとして数えられたが、第二次朝鮮戦争で西朝鮮を併合、後に中華合衆国連邦の一邦国を形成する。戦後、旧大日本帝国軍人が多く流入した。

大韓民国は、李承晩とその支持者が「正統朝鮮」を名乗り日本に亡命政府を樹立するが、第三次世界大戦で消滅した。

アメリカ合衆国は、大量の反応兵器使用と事実上の敗戦を受け、国際的な孤立を深めた。1953年にロバート・タフトが大統領に就任し、以降は孤立主義的傾向を強め、軍事忌避思想も流行した。

ソヴィエト連邦は、参戦により西朝鮮を解放したことと相互抑止を発見したことにより国際的な影響力を強めた。

中華人民共和国は、満洲及び華北に甚大な被害を受け、軍が壊滅し、混迷の時代へと進む。

中華民国は、ソ連軍との戦闘で貴重な戦力を擦り潰し、第三次世界大戦に於ける大陸反攻(国光計画)が不完全に終わる要因を作った。

大日本皇国は、独自の動きを見せ、潜在的な大国としての力を見せつけた。特に国際軍として再軍備された日本軍が、太平洋協定の中核を成し、安全保障の枠組みで東アジア地域の安定に限定的とはいえ機能したことは、1954年以降の太平洋協定の拡大*14や、後の大日本皇国による周辺国に対する侵略*15に大きな影響を及ぼした。

 

 

 

西朝鮮

朝鮮人民共和国(1945-1948)→朝鮮民主主義人民共和国(1945-1989)

延安派が八月宗派事件で主導権を握り、金日成が失脚。スターリン批判に同調し、親ソ路線を歩むが、第三次世界大戦後は中国へ接近。金日成は中国へ亡命、後に日本へ行き着く。

 

東朝鮮

大韓民国(1950-1952)→東朝鮮過渡政府(1952-1961)→軍事革命委員会(1961)→国家再建最高会議(1961-1963)→朝鮮民主共和国(1963-1972)→維新体制(1972-1980)→朝鮮民主正義国(1980-1989)→統一朝鮮(1989)

張勉が失脚すると東西統一まで軍事独裁政権が続く。政情が安定せず軍事政変が多発した。社会主義国家である西朝鮮に常に経済規模で後塵を拝していたが、日本の技術移転もあり、1970年代からは重工業が発達。西朝鮮による朴正熙大統領暗殺事件を受け、西朝鮮へ侵攻。第四次世界大戦の一局面である第二次朝鮮戦争で勝利した。1989年、漢江の壁崩壊に伴い悲願の東西平和統一を成し遂げる。

 

カール・レーフラー/「朝鮮史」より抜粋

*1:戦中、一部報道では「トルーマン」の表記が用いられたが、米軍が玉音放送の最中に京都市街地へ反応攻撃したことを指して、吉田茂が「真実の男」として「トゥルーマン(true man)」と揶揄したことにより、この表記が一般的になった。

*2:執務で平壌へ向かっていた。

*3:日本に無条件降伏を強いられなかったこと。

*4:日本への再統合を望む人々。

*5:ユーゴ、インド、エジプトが反対。

*6:警察予備隊本部長官は山下奉文。

*7:警察予備隊の派兵は、あくまで治安維持を名目としていたが、戦後自らを「象徴」と位置付け政治的中立を謳っていた昭和天皇の行為として、これが意味するところは明白であり、この挑発行為に対して日本政府は恭順し、渋々軍の派遣を決定した。

*8:太平洋戦争末期、対日参戦した極東ソ連軍上陸部隊主力は、1946年4月25日、26日に米国がソ連占領下の日本の北海道の都市、函館と旭川に投下した反応兵器により消滅している。2度に渡る対日上陸作戦が頓挫した米国は、当時欧州で進行していた第一次冷戦(米ソ冷戦)で優位に立つべく、また国内の反戦世論に押される形で、日本の赤化を防ぎつつ、早期の戦争終結を実現する為に、ソ連軍上陸部隊ごとふたつの都市を破壊するという幕引きを図った。日本としても石原莞爾指揮下の総動員体制で本土戦を戦う中、国力が払底しつつあったが、ソ連による北海道占領を許容できる訳もなく、北海道各地で無謀な自殺的攻撃(特別攻撃)を繰り返していた為、ソ連軍上陸部隊の消滅は、日米両国を一気に停戦へ近づけた。当然米ソ間の関係は著しく悪化した。これは第二次中東戦争でソ連が反応兵器を使用する遠因となった。

*9:中国は戦争全体の民間人の総死者数を4500万-6000万人と主張している。

*10:核爆発の熱線や被曝による直接の死亡者のみならず、同胞である中国軍による虐殺や生体実験から、生存者同士の暴動、餓死、侵攻してきた米華軍と領内で戦闘を始めたソ連軍による虐殺や戦闘の付帯被害等、間接的な被害を含む

*11:現在では当時朝鮮半島に存在した中朝連合軍は多くても100万-300万人ほどとされている。

*12:尚、ウィロビーは、朝鮮動乱が朝鮮戦争に発展した契機である中国の参戦を予測せず、誤った報告をマッカーサーへ上げ、これを元にマッカーサーはトゥルーマンに対し中国参戦を否定した。同じようにウィロビーは満洲反応攻撃に当たり、ソ連は目立った反応は起こさないだろうとマッカーサーに報告していることがわかっている。

*13:後の東朝鮮総統

*14:1954年9月8日に大ブリテン連合王国、フランス第四共和国、パキスタン、タイ王国が、同年11月7日に東朝鮮過渡政府が太平洋協定に加盟した。翌年3月3日には、中華民国が加盟した。

*15:第三次世界大戦以後、アメリカ合衆国が分裂し、急速に影響力を失う中、大日本皇国は同盟の盟主として第二次冷戦を主導した。また日中国交正常化に際して、中華民国を同盟から追放し、台湾島に侵攻した。第四次世界大戦以降は、マフィリンド解体に着手。幾つかの衛星国を獲得した上で、アジア通貨危機を引き起こし、同盟国であるタイ王国ごと東南アジア諸国(日本側呼称: 南アジア)を経済的隷属下に置いた。

元号

元号

 

「昭和」「化成」「天翔」の三つの元号についての簡易説明。

 

・裕仁

昭和元年-昭和37年(ソ連対日反応攻撃で崩御)

即位: 1926年12月25日-1962年11月1日

(35年311日)

宝算: 1901年4月29日-1962年11月1日

(61年186日)

 

・明仁

化成元年-化成58年(後障害の闘病の末に崩御)

即位: 1962年11月1日-2019年4月30日

(56年181日)

宝算: 1933年12月23日-2019年4月30日

(85年128日)

 

・徳仁

天翔元年-

即位: 2019年5月1日-

宝算: 1960年2月23日-

日本皇国憲法三誥

吿文󠄁

朕は、謹み畏みて皇祖皇宗の神霊に申し上げ奉る。

朕は、肇国の大業を基とし、億兆と共に国家を再興し、繁栄と安寧の世を築き、皇統の永続を全うせんと欲す。顧みれば、朕が主体を欠き、一部の臣下に過分の信を寄せ、その言に惑わされたるが故に、彼らの無能と不忠を見過ごし、国体を危うくする戦禍を招き、諸都市に破壊を、諸森林に荒廃を、田畑に蹂躙を招来し、全体たる無辜の臣民に大なる艱難を課せり。朕は、この過ちを深く悔い、斯くの如き災いを二度と繰り返さじと固く決意し、自ら国家の統治に尽瘁することを誓い奉る。今、朕は自らを臣民の象徴とし、皇祖皇宗の遺訓を明徴にし、これを臣民に永く守らしむ。内には子孫に遵うべき道を示し、外には臣民に奉ずべき法を定む。ここに新たな皇室典範及び憲法を制定す。天皇たる朕が躬自ら範を示し、臣民と共にこれを奉じて、祖宗の神勅に応え、国運の開闢を永遠に全うせんことを期す。伏して神助を仰ぎ、皇祖皇宗の御加護の下に、皇国の弥栄を永久に保ち奉らんことを祈り申し上げ奉る。朕は、天壌無窮の宏謨に従い、惟神の宝祚を継承し、版図を保持して、皇国の生命を永遠に護り奉る。

 

勅語

朕は、国家の再生と臣民の回復とを自らの使命とし、朕が祖宗から承けた大権に基づき、現在及び将来の臣民に対し、此の新たなる憲法を宣布する。思うに、我が皇国は、我が祖宗の威徳と我が臣民の忠勇とに依って肇造され、以て無窮に垂れたるものなり。爾等は朕が意を奉体し、朕が事を奨順し、相与に和衷協同し、益々我が帝国の光栄を中外に宣揚し、祖宗の遺業を永久に鞏固ならしむるの希望を同じくし、爾等と此の負担を分かつに堪うること疑わざるなり。嘗て無道なる敵は、朕が和平を欲する声をも蹂躙し、幾多の都市を焦土と化し、無数の生命を奪いたり。然れど、朕と臣民が一体となり、膨大な犠牲を払いて敵を屈服せしめ、国体を護持し得たるは、この協力の偉跡にして栄光なり、皇国の新たなる礎とす。今、朕は祖宗の遺烈を仰ぎ、臣民の献身を讃え、ここに新たなる憲法を宣布す。朕と爾等は運命を共にて、国家の隆昌を致さんことを期す。朕は此の大法を以て皇国の再興を導き、臣民はこれを奉じて忠勤に励むべし。斯くして、皇国の繁栄は永劫に続き、国体の精華は後世に輝かん。

 

前文

日本臣民は、天皇に従い行動し、われらとわれらの子孫のために、全ての臣民の協和による成果と、わが国全土にわたって皇恩のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が天皇に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、天皇の神聖な信託によるものであって、その権威は国家統治の大権に由来し、その権力は天皇みずからこれを行使し、その重責は臣民がこれを輔翼する。これは君民共治の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに叛く一切の敵を排除する。日本臣民は、恒久の平和を念願し、君民一体の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を謳う諸国民の公正と信義に信頼せず、われらの手で安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去する。われらは、国際社会において、名誉ある地位を占める。われらは、全ての臣民が、ひとしく恐怖と欠乏から免がれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。われらは、いずれの臣民も、みずからのことのみに専念してはならないのであって、国体の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、国家の主体を維持し、全体と対等関係に立とうとする臣民の責務であると信ずる。

日本臣民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。