天皇器官説

天皇は脳髄、官僚は神経、臣民は細胞!

天皇器官説序論

天皇器官説」は、第三次戦間期の大日本皇国憲法下で確立された「三体(国体観念、主体思想全体主義)」に基づく世界観である。

天皇は脳髄、官僚は神経、臣民は細胞」の言葉に代表されるように、「国家」を一つの生物と見做し、「生存」延いては「増殖」を究極の国家目標とする。

有機的国家論(国家有機体説)のひとつである。

 

大日本皇国では、「新陳代謝」の標語の下に各種社会保障の大削減や命の選別、臓器籤が公然と行われたが、その対象となった人々でさえもその多くが運動を熱狂的に支持し参画したことは特筆に値する。

他にも「適応免疫」と称する、嘗ての尊王攘夷運動を思わせる極端な排外主義は、大日本帝国時代から引き継いだ拡張主義とのその後の合体と併せて「アジア地域を極端に見下す近代日本の象徴的な病理」として西米ドナルド・トランプ氏を始めとする多くの学者から指摘されている。

 


本稿では、今日ナチズムとも比較されるこの狂気の運動及び思想を、第二次世界大戦終盤に於けるアメリカ合衆国の16発の対日反応兵器使用まで遡り、「昭和」「化成」「天翔」と続く現代日本史を、大日本帝国の対連合国条件付き降伏から昭和天皇主導の「日本の奇跡」と呼ばれる高度経済成長、第三次世界大戦昭和天皇崩御、その後の田中、浜田政権の成立、また第四次世界大戦戦勝後の中華合衆国連邦との熾烈な冷戦とその果ての両国の崩壊を通じて、現在人類悪ともされる「天皇器官説」とその根幹を成す「三体」の「国体観念」「主体思想」「全体主義」それぞれの成立と成熟、崩壊の100年間について俯瞰的に論じたい。

 


(カール・レーフラー/「天皇器官説序論」より抜粋)

日本列島改造論

日本列島改造論は、田中角栄が「沖縄奪還」の翌月の1972年6月11日に発表し、実行した政策である。

その成果は多岐に渡るが、本稿では行政区画改革について述べる。

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大日本皇国の行政区画。
内地は京畿道と四海道で構成される。

 

第三次世界大戦の戦災から10年の節目であり、また沖縄の本土復帰を果たした記念事業として大々的に実行された。特徴として「多京制」と「道州制」の導入が挙げられる。

この2つの概念は、1962年第三次世界大戦(米ソ戦)緒戦に於いてソヴィエト連邦から旧首都京都府を始めとする複数の主要都市と占領下沖縄を含む在日米軍基地所在地に先制反応攻撃を受けた経験から生まれた。

多京制は、首都機能移転可能都市を多数擁することで、敵の第一撃に耐え、すぐ様反撃し第二撃を阻止することを企図し制定された。まず京都、東京府の開発とその対になる西京府の建設が旧広島市で開始され、旧名古屋市、旧姫路市等の戦禍を免れた大都市から首都機能移転可能都市が整備された。

道州制は、その際に想定される政府との連絡途絶、また政府の消滅という事態に、平時から地方公共団体に広範な権限を与えることで備えようとして制定された。道の中に州が置かれた。また後に設置される庁の下には州に準じる単位である域が置かれた。

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三庁を含めた行政区画図。

ここからは、多京制、道州制双方の完成と言われる西暦2000年の行政区画を見ていく。

道は京畿道と四海道(東海、西海、南海、北海の4道)の5道が置かれ、庁は勘察加、阿留申、比律賓の3庁が置かれた(五道三庁)。

 

五道(京畿、東海、西海、南海、北海)

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北海道。

1972年時点では旧北海道のみを指したが、第四次世界大戦戦勝による樺太千島獲得により拡大した。

樺太州と蝦夷州を内包する。

筆頭首都級都市は北京府。

樺太州は奥端、縫江、敷香、越取、豊原の5県。

蝦夷州は北京、千島、北見、石狩、釧路、渡島、日高の1府6県。

 

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東海道

旧東北地方、旧関東地方と旧中部地方の大部分で構成される。田中角栄主導の平和的核爆発によって三国峠が破砕され、その土砂を用いて新佐渡島が建設された為、佐渡島は本土と陸続きとなった。

東北州と瑞穂州を内包する。

筆頭首都級都市は東京府

東北州は仙京、陸奥、出羽、高志、磐城の1府5県。

瑞穂州は東京、名京、加賀、毛野、布佐、佐斯、美濃の2府5県。

 

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京畿道。

凡そ旧兵庫県の一部を除く旧近畿地方と旧福井県若狭地域で構成される。

州は置かれていない。

首都京都を擁する。

京、丹波、伊勢、淡路、大和の1都4県。

 

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西海道

旧中国地方、旧四国地方沖縄県を除く旧九州地方の大部分で構成される。済州島獲得に伴い筑紫県五島列島南海道値嘉県として分立した。

葦原州と西南州を内包する。

筆頭首都級都市は西京府。

葦原州は西京、姫京、出雲、吉備、長門、伊予、土佐の2府5県。

西南州は福京、筑紫、台与、肥伊、日向の1府4県。

 

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南海道

琉球諸島、旧台湾、小笠原諸島五島列島等の広大な海域の島々で構成される。

沖縄州と高砂州を内包する。

沖縄州は南京、八丈、値嘉、奄美、硫黄、石垣、大宮の1府6県。

高砂州は基隆、花蓮、苗栗、嘉義、高雄の5県。

 

 

三庁(勘察加、阿留申、比律賓)

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勘察加庁。

旧勘察加半島の大部分で構成される。平和的核爆発によって半島の付け根の日露国境(胡唐線)に沿って全長250Kmに渡る勘察加運河が建設された為、現在は勘察加島(勘島)と呼ばれる。比較的に発展を遂げた留加支庁は現在県昇格の議論がある。

流鬼域と夜叉域を内包する。

流鬼域は胡略、唐賀、原那、契里、秘取の5支庁。

夜叉域は勘川、粍古、素惚、留加、襟曽、濠川の6支庁。

 

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阿留申庁。

アリューシャン列島と旧アラスカ半島等で構成される。西米政府への援助の見返りに割譲させた。勘察加庁と同じく実験的に反応兵器が多数用いられ、島として大陸から切り離されている。現在は大陸間弾道弾発射基地として整備されており、一般人の立ち入りは認められていない。全域を指して阿留申島(阿島)。

域は置かれていない。

駒鳥、鳴神、有栖の3支庁。

 

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比律賓庁。

フィリピン出兵で併合した。初の大人口地帯での「皇化」の為、支庁は細かく設定され実験的な統治が行われている。全域を指して比律賓島(比島)。

呂宋域と久屋域、蒲端域を内包する。

呂宋域は輝屋、東都、彦留の3支庁。

久屋域は薩馬、莱特、宿霧、摩逸、原湾の5支庁。

蒲端域は唐賀、民足、螺尚、曽草、三宝、薩摩の6支庁。

 

 

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西暦2000年現在の大日本皇国の勢力図。

終わりに首都機能移転可能都市に纏わる話として、同時期の大日本皇国が筑波研究学園都市を始めとする秘密都市を多数建設していたという情報から、地図上に決して示されることはないが名前の判明している天京、吉京、仁京、松京が本命の首都機能移転可能都市であり、公表されている8府は欺瞞情報であるとする説がある[要出典]。その説では吉京は旧吉備国、松京は旧松代町に名称の由来があるとする。旧吉備国上房郡第三次世界大戦後、地元の地方議員らによって臨時政府が組閣された地であるし、松代町第二次世界大戦中、松代大本営が設置された地である。カール・レーフラーはそれぞれの頭文字が日本語で縁起の良い漢字であることを指摘し、「(秘密都市という性格上)必ずしも地域を特定するものではない」としている。

 

尚、大日本皇国政府は今日まで正式な回答を避けているが、質問した外国人記者らが相次いで不可解な事故に遭い死亡している。

第一次朝鮮戦争

第一次朝鮮戦争だいいちじちょうせんせんそう、朝: 제1차 한국전쟁/조국해방전쟁/第一次韓國戰爭/第一次祖國解放戰爭、英: Korean War Ⅰは、第二次世界大戦後に独立した朝鮮民主主義人民共和国で発生した大規模な反乱「朝鮮動乱」へアメリカ合衆国が介入し中華人民共和国が全面参戦したことで発生した、朝鮮半島の主権を巡る国際紛争。紛争当事国の中国満洲へ50発の反応兵器が使用された。ソヴィエト連邦が参戦したことで、「キューバ事変」以前で最も第三次世界大戦へ近づいた瞬間とされる。

 

略史

1950年6月25日、朝鮮人民軍の一部将校が「大韓民国」を自称し蜂起した。朝鮮動乱の勃発である。反乱は瞬く間に半島各地に拡大した。李承晩を「大統領」に据えた反乱軍は、急速に勢力を強め、一時は半島南部ほぼ全域を掌握するも、同年9月までに釜山一帯へと敗走した。

アメリカ合衆国は、ハリー・S・トゥルーマン*1が対日戦争での失点を補うべく介入を決意し、国連多国籍軍を結成した。国連軍による仁川上陸作戦は成功し、朝鮮人民共和国軍を中朝国境地帯付近まで追い詰めた。ヨシフ・スターリンは、毛沢東に日本軍国主義の復活と中国への戦火の拡大を忠告し、中華人民共和国朝鮮戦争参戦を促した。

中国人民志願軍の突然の参戦は戦線を大きく押し戻し、朝鮮動乱は「朝鮮戦争」へ発展した。米軍の満洲に対する大量の反応兵器使用(中国側呼称: 満洲大屠殺、日本側呼称: 満洲核撃)は、ソ連の参戦を引き起こした。

1949年に反応兵器保有に成功したソ連は、米国との間に核抑止を機能させた。疲弊した国連軍はソ連軍の猛攻の前に西朝鮮を失陥、半島は東西に分断された。戦線は膠着し、1953年7月27日に米ソは朝鮮戦争休戦協定に署名し休戦に至ったが、東経127度線付近の休戦時の前線が軍事境界線として認識され、西朝鮮による朴正熙暗殺事件から始まる第二次朝鮮戦争を経て、漢江の壁崩壊で西朝鮮が東朝鮮に併合されるまで、朝鮮半島は東西2国による分断状態が続くことになった。

 

前史

第二次世界大戦終盤のソ連対日参戦によって当時の大日本帝国満洲ソ連軍の侵攻を受けた。局面が日本本土決戦へ移る中で、大陸では日本軍が居留民を置き去りに各地で遅滞戦闘を展開するも敗北し、満州、朝鮮、北支はソ連軍によって「解放」された。

朝鮮半島は、1945年9月6日までに全土が占領され、同日中にソ連の監督下で臨時政府「朝鮮人民共和国」が樹立された。日本本土決戦にて極東ソ連軍が壊滅し、八路軍が第二次国共内戦を戦う中、空白地帯となった朝鮮人民共和国では激しい権力闘争と搾取、弾圧と恐怖主義が横行し、治安が崩壊しつつあった。苛烈な統治に対し農民の反乱や将兵の抗命が続発し、当局は「大邱十月事件」や「済州島四月事件」、「聞慶虐殺事件」等に代表される虐殺で応えた。1948年9月9日に金日成首相の下で「朝鮮民主主義人民共和国」が建国された。

 

反乱作戦「暴風」

1950年6月25日、朝鮮民主主義人民共和国首都漢城にて朝鮮人民軍一部将校が反乱作戦「暴風」を発動し、「大韓民国」を自称して蜂起した。反乱は都市部を中心に各地に波及し始め、後に「朝鮮動乱」と呼ばれる大規模な内乱が始まった。

暴風作戦は、まず少数の反乱軍部隊で首都漢城を電撃的に占拠し金日成ら高官を処刑、事態を宣布して同調する軍人や民衆の蜂起を待ち、全土を掌握した後に米国の庇護下で再度独立を達成する、というもので、作戦を立案した反乱の首謀者は地下に潜伏していた民族主義活動家の李承晩。尚、米国はこの情報を反乱勃発まで掴めていなかった。

決起部隊は漢城を占拠するも、金日成を発見することができず*2、仕方なく軍高官らを処刑し「民主主義革命」を宣言、米国へ庇護を願い出た。米国大統領ハリー・S・トゥルーマンは直ちに、対日戦争に於ける自らの失点*3を取り戻す為に、犬猿の仲であるダグラス・マッカーサー元帥と結託して朝鮮動乱への介入を決意した。

 

革命の頓挫と国連軍結成

大韓民国」運動は瞬く間に全国へ波及した。各地で軍人や民間人を徴集、糾合し、急速に拡大した。「大韓民国」は反乱将校から民族主義者、農民、致日派*4自由主義者中道左派政治犯等、多様な人々が「反朝鮮民主主義人民共和国」で大同した。彼らは日本時代に建設され当局が利用している庁舎や家々を破壊し、共産主義者(と思しき人物)らを殺害して回った。しかし工業地帯の集中する北部では朝鮮人民共和国軍によって反乱は直ちに鎮圧され、朝鮮半島は大きく南北に二分された。

6月27日、北部の掌握に失敗した大韓民国は、朝鮮人民軍の濃密かつ無差別的な砲撃の前に首都京城を放棄し、大日本皇国に対して山口県に亡命政府用の収容避難場所の建設を要請した。

 

6月27日に開催された安保理は、北朝鮮を弾圧者と認定、「その行動を非難し、軍事行動の停止と軍の撤退を求める」国際連合安全保障理事会決議82が可決された。賛成したのは9カ国で反対国はおらず、唯一棄権したのは社会主義国で当時ソ連と対立していたユーゴスラヴィアだった。

「私は、もし『韓国運動』が崩壊するのを許したならば、共産主義者の指導者たちが勇気を得て、私たちの国に近い国々を転覆させ、彼らの国の我々に近い人々を弾圧するようになると確信していました。もし、共産主義者が自由世界の反対を無視して民主的な示威行動を弾圧することが許されるならば、どの小国もどの人々も、より強力な共産主義者の国家からの専制と隷従、圧迫と偏狭に対抗する勇気を持てなくなるでしょう。このようなことが許されれば、第二次世界大戦と同じように、第三次世界大戦が勃発することになるでしょう。私は、この残虐な民間人への攻撃を阻止しない限り、国連の基盤と原則が危機にさらされることは明らかだと思いました。」

──トゥルーマンの本決議案への考えの説明より

翌日には朝鮮人民軍が民間人を大量に殺害しながら京城を回復し、遠からず反乱軍は殲滅されることになると思われた。

 

7月7日、国連安保理は、朝鮮民主主義人民共和国弾劾、武力制裁決議に基づき「韓国」を防衛するため、加盟国にその軍事力と支援を統一部隊に提供するよう求め、アメリカにその司令官の任命を要請する国際連合安全保障理事会決議84を賛成7 : 反対3で可決した*5。これを受け、マッカーサーを司令官とする米軍25万人を中心として、英連邦諸国、さらにタイ王国やコロンビア、ベルギーなども加わった国連軍を結成し、7月30日に国連安保理国際連合安全保障理事会決議85を賛成9 : 反対0 : 棄権1で可決して国連軍の司令部を承認した。尚、この国連軍に常任理事国ソ連中華民国は含まれていない。当初、大日本皇国は参加しなかったが、国連軍の後方基地として国内の軍事基地を提供した。

 

釜山橋頭堡と日本の介入

寄せ集めであり且つ職業軍人の数で劣る大韓民国は組織的な抵抗が行えず敗走を繰り返し、進撃する朝鮮人民軍の前に釜山周辺へ追い詰められた。

国連軍による大規模な強襲上陸作戦が急速に準備されている中、大日本皇国政府は劣勢の大韓民国に援軍を送るようアメリカ合衆国から要請されるも、後方基地の提供を引き合いにこれを拒否し続けた。8月10日、昭和天皇は自身の私兵である禁衛府皇宮衛士総隊を「警察予備隊*6」と改称した上で釜山に派兵した*7

 

現地へ到着した警察予備隊は、即日戦地へ投入された。反乱が各地で鎮圧され、自分たちにとって余りにも遅過ぎる国連軍に絶望していた韓国軍は、突然の元宗主国の参戦に士気を持ち直した。韓国軍が総崩れの中で警察予備隊朝鮮人民軍との戦闘で南進を一時停止させ、3日間の軍事的空白の時間を生んだ。結果的に、韓国軍が勢力を巻き返すための貴重な時間稼ぎをする事ができた。

 

仁川上陸作戦と中国人民志願軍

1950年9月15日、マッカーサー個人により発案され、マッカーサー個人の信念によって実行に移された極めて投機性の高い仁川上陸作戦(暗号名: クロマイト作戦)は、戦況を一変させた。朝鮮人民軍の補給を寸断、各地で包囲し、中朝国境地帯付近まで敗走させた。民主主義国家統一朝鮮「大韓民国」の建設は目前と思われた。

10月19日、国連軍が平壌を解放したその日、鴨緑江を渡り26万を数える中国人民志願軍(抗美援朝義勇軍)が朝鮮半島へ進撃を開始した。後方待機を含めると100万を超える大部隊であり、当時トゥルーマンマッカーサーは「中華人民共和国の大規模介入はソ連が世界戦争を決意しない限りあり得ない」として全く予期していなかった。

この中国の参戦を以て朝鮮動乱は「朝鮮戦争」へ発展した。

国連軍はマッカーサーの杜撰な作戦指揮によって大敗を喫した。

先立つ11月晦日トゥルーマン朝鮮戦争に於ける反応兵器使用を示唆する。

進撃を続ける中国人民志願軍の圧倒的な人海戦術を前に「米軍最大の敗走」を余儀なくされたマッカーサーと本国のトゥルーマンは、追い詰められた末にある結論に至った。

 

満洲核撃

3月20日アメリカ合衆国中華人民共和国東北部(満洲)に対して50発に及ぶ反応攻撃を行った(満洲核撃)。中華人民共和国は、大日本帝国に続く第二の戦争被爆国となった*8。都市、軍事基地、幹線道路、港湾等の重要目標50箇所が標的とされ、当時の中国東北部の推定人口約2000万人の内、少なくとも1000万人*9が2-4ヶ月以内に死亡した*10。中ソの航空戦力は壊滅し、中国人民志願軍の補給線も消滅した。米海兵隊国府軍50万による義州上陸作戦を実施して中朝軍を包囲殲滅し(第三次国共内戦)、3月24日までに中朝国境地帯(鴨緑江)を大規模に突破した。

マッカーサーは、効果的な反応兵器使用により当時半島内に存在した全ての中国人民志願軍及び朝鮮人民軍部隊凡そ1000万人*11を包囲殲滅したと主張した。本作戦実施前、マッカーサーはかねてからの持論「中国を1年間で屈服させる新しい構想」を各所で繰り返しており、24日にはいつの間にか10日間に短縮されたそれを根拠に一軍司令官としては異例の「軍事的情勢判断」を発表した。事実上の対中最後通牒であり、中国のみならずソ連をも大いに刺激した。

大量の反応兵器が投下された満洲のみならず華北、モンゴル、ソ連極東、朝鮮半島に至る広域で放射能汚染と甚大な健康被害を齎した。

この事件には極めて強い国際的非難が浴びせられた。この身勝手な虐殺は、東側諸国だけでなく英仏といった同盟国からも糾弾され、一時は創設間もない北大西洋条約機構NATO)の存続すら危ぶまれた。国連軍の中には、英連邦諸国やタイ王国等、戦争から撤退する国も見られた。

結論として、この無謀な民間人虐殺は米国になんら優位を齎さなかった。在庫をほぼ吐き出して極めて高額な兵器を多数用い、民間人を不当に虐殺し、土地に取り返しのつかない汚染を齎しながら敵野戦軍を殲滅した。しかし、直後にソ連参戦を招き、「解放」した半島の半分を失うことになる。この事実は米国を震撼させた。日本を無条件降伏へ追い込めず、中国を粉砕したらソ連が参戦してきた。反応兵器はただの巨大な爆弾か、或いは極めて面倒臭い爆弾である、と認識を改めた。このことは、戦後米国が通常戦力の回復に努め、反応兵器拡充が鈍化したことで、本来の反応技術、工業生産能力では圧倒しているはずである反応兵器後発のソ連と、1962年時点でほぼ同数の反応兵器を保有することになり、第三次世界大戦(米ソ戦)での実質的な敗北とそれが齎した内戦に至る最大の要因となった。

 

4月6日、スターリンハバロフスクに9発の反応兵器を移送するよう指示した。

 

ソ連参戦

中国が総力戦体制へ移行する中、4月10日、ソ連が全面参戦した。4月22日の春季攻勢で国連軍主力を突破し、朝鮮半島北部へ雪崩れ込んだ。国連軍は蓋馬高原の一部を除き北部朝鮮を失陥したが、絶望的な戦闘を繰り返し、最終的な撤退に成功した。初の米ソ両軍の戦闘であり、「キューバ事変」以前で第三次世界大戦に最も近づいた瞬間とされる。

この戦役でマッカーサーは戦死した。彼独自の理論に基づいて満洲にて陣頭指揮を行なっていた為、流れ弾に当たって死亡した説や、マッカーサーの幕僚であり、戦後すぐに日本へ亡命した情報将校チャールズ・アンドリュー・ウィロビーがその死に何らかの形で関与したとの説があるが、後者に関しては身柄を保護した日本が公式の説明を行なっていない為、闇に包まれたままである*12

疲弊した国連軍は、ソ連軍の春季攻勢の際し辛うじて撤退に成功していたが、その後も続くソ連軍の濃密な砲撃と連続した無停止進撃の前に敗走を重ね、遂に漢城を手放した。ソ連の攻勢は留まる気配がなく、国連軍は7月29日のソ連軍夏季攻勢で西部朝鮮を全て喪失する。

尚、ソ連参戦後、両軍共に反応兵器は用いなかった。現在では、ハバロフスクに配備されたソ連の反応兵器により、米国との間に相互抑止が働いた為と考えられている。

 

膠着

西部朝鮮失陥後、国連軍は京城大日本帝国の影響を色濃く残す大韓民国漢城を日本統治時代の名で呼称する)解放作戦を実行するも漢江北岸の解放に留まる。1951年夏以降、戦線は膠着し、間もなくソ連国連大使ヤコフ・マリクの提案から休戦が模索され始めた。

1952年1月8日、李承晩線(東経127度線)が朝鮮半島を南北に走る白頭大幹に凡そ沿う形で提唱された。5月25日、米国が糸を引いた政変「釜山政治波動」で李承晩が失脚すると、張勉が大統領に就任、国名を「東朝鮮過渡政府」に改めた。米国に指示を受け作戦を立案したのは、朴正熙*13陸軍作戦本部次長である。李承晩一派は臨時首都釜山から、1950年6月に大日本皇国の山口県阿武町に作らせた収容避難場所へ逃れ、大韓民国亡命政府を宣言した。

6月23日、国連軍はかつて大日本帝国が建設した水豊堰堤を爆撃した。完成時東洋一の規模だったこの堰堤は堅牢で、発電設備の大部分は破壊されたが、堰堤の損傷は僅少だった。国連軍は、同年9月12日から翌13日にかけて大量の爆弾を投下し、水豊堰堤を破壊した。大量の水が下流へ流れ込み、中国遼寧省の安東市を始め、鴨緑江沿岸の街を飲み込み、夥しい死者を出した。中国人民志願軍の補給を断ち、膠着する半島の戦況を好転させしむる為の作戦だったが、前線は動かず10-600万人とも言われる死者行方不明者を出しただけに終わった。当時、鴨緑江中国側には、米国の満洲核撃による難民が多数滞在していたとされる

1953年に入ると米大統領選挙によってロバート・タフトが大統領に選出され、ソ連ではスターリンが死去した。両者は急速な歩み寄りを見せ、7月27日、京城にある旧朝鮮総督官邸「景武台」にて米ソの間で休戦協定が結ばれ、李承晩線を軍事境界線とし、3年続いた戦争は一応の終結を見せ停戦となった。あくまで国連軍(米国)とソ連間の合意であり、半島全土の主権を主張する東西朝鮮と国土に50発の反応攻撃を受けた中国は休戦協定に参加していない。その為、第二次戦間期から第四次世界大戦を通して中朝連合軍と東朝鮮は厳密には戦争状態にあり、幾度も国境紛争を繰り返した。

朝鮮半島はそれぞれ唯一の正統政府を名乗る二つの勢力「朝鮮人民共和国(西朝鮮)」と「東朝鮮過渡政府(東朝鮮)」によって東西に二分され、両国の首都もまた東経127度線付近の漢江を境に京城(北ソウル)と漢城(南ソウル)に分断される。3年に渡って半島全土を破壊した戦争はこうして終結した。

尚、済州島は1953年の第一大邦丸事件を受けた大日本皇国が「懲罰的軍事行動」として占領、後に併合した。

 

 

 

総括

 

西朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)は、国内に於ける圧政の末路として、国土の半分を失った。金日成は党内での地位を失い、八月宗派事件で亡命する。元々日本統治時代の工業地帯を有してはいたものの、産業基盤が貧弱でソ連の衛星国の性格が強かったが、第三次世界大戦以降は、中ソ両国への依存を深める。

東朝鮮(東朝鮮過渡政府)は、大韓民国(韓国)から分離した一派で、釜山政治波動で実権を握った。その国土は山がちで産業が育たず、軍事政権が続き世界最貧国の一つとして数えられたが、第二次朝鮮戦争で西朝鮮を併合、後に中華合衆国連邦の一邦国を形成する。戦後、旧大日本帝国軍人が多く流入した。

大韓民国は、李承晩とその支持者が「正統朝鮮」を名乗り日本に亡命政府を樹立するが、第三次世界大戦で消滅した。

アメリカ合衆国は、大量の反応兵器使用と事実上の敗戦を受け、国際的な孤立を深めた。1953年にロバート・タフトが大統領に就任し、以降は孤立主義的傾向を強め、軍事忌避思想も流行した。

ソヴィエト連邦は、参戦により西朝鮮を解放したことと相互抑止を発見したことにより国際的な影響力を強めた。

中華人民共和国は、満洲及び華北に甚大な被害を受け、軍が壊滅し、混迷の時代へと進む。

中華民国は、ソ連軍との戦闘で貴重な戦力を擦り潰し、第三次世界大戦に於ける大陸反攻(国光計画)が不完全に終わる要因を作った。

大日本皇国は、独自の動きを見せ、潜在的な大国としての力を見せつけた。

 

 

 

西朝鮮

朝鮮人民共和国(1945-1948)→朝鮮民主主義人民共和国(1945-1989)

延安派が八月宗派事件で主導権を握り、金日成が失脚。スターリン批判に同調し、親ソ路線を歩むが、第三次世界大戦後は中国へ接近。金日成は中国へ亡命、後に日本へ行き着く。

 

東朝鮮

大韓民国(1950-1952)→東朝鮮過渡政府(1952-1961)→軍事革命委員会(1961)→国家再建最高会議(1961-1963)→朝鮮民主共和国(1963-1972)→維新体制(1972-1980)→朝鮮民主正義国(1980-1989)→統一朝鮮(1989)

張勉が失脚すると東西統一まで軍事独裁政権が続く。政情が安定せず軍事政変が多発した。社会主義国家である西朝鮮に常に経済規模で後塵を拝していたが、日本の技術移転もあり、1970年代からは重工業が発達。西朝鮮による朴正熙大統領暗殺事件を受け、西朝鮮へ侵攻。第四次世界大戦の一局面第二次朝鮮戦争で勝利した。漢江の壁崩壊に伴い悲願の東西平和統一を成し遂げる。

 

カール・レーフラー/「朝鮮史」より抜粋

*1:戦中、一部報道では「トルーマン」の表記が用いられたが、米軍が玉音放送の最中に横浜市街地へ反応攻撃したことを指して、吉田茂が「真実の男」として「トゥルーマン(true man)」と揶揄したことにより、この表記が一般的になった。

*2:執務で平壌へ向かっていた。

*3:日本に無条件降伏を強いられなかったこと。

*4:日本への再統合を望む人々。

*5:ユーゴ、インド、エジプトが反対。

*6:警察予備隊本部長官は山下奉文

*7:警察予備隊の派兵は、あくまで治安維持を名目としていたが、戦後自らを「象徴」と位置付け政治的中立を謳っていた昭和天皇の行為として、これが意味するところは明白であり、この挑発行為に対して日本政府は恭順し、渋々軍の派遣を決定した。

*8:太平洋戦争末期、対日参戦した極東ソ連軍上陸部隊主力は、1946年4月25日、26日に米国がソ連占領下の日本の北海道の都市、函館と旭川に投下した反応兵器により消滅している。2度に渡る対日上陸作戦が頓挫した米国は、当時欧州で進行していた第一次冷戦(米ソ冷戦)で優位に立つべく、また国内の反戦世論に押される形で、日本の赤化を防ぎつつ、早期の戦争終結を実現する為に、ソ連軍上陸部隊ごとふたつの都市を破壊するという幕引きを図った。日本としても石原莞爾指揮下の総動員体制で本土戦を戦う中、国力が払底しつつあったが、ソ連による北海道占領を許容できる訳もなく、北海道各地で無謀な自殺的攻撃(特別攻撃)を繰り返していた為、ソ連軍上陸部隊の消滅は、日米両国を一気に停戦へ近づけた。当然米ソの関係は著しく悪化した。これは第二次中東戦争ソ連が反応兵器を使用する遠因となった。

*9:中国は戦争全体の民間人の総死者数を4500万-6000万人と主張している。

*10:核爆発の熱線や被曝による直接の死亡者のみならず、同胞である中国軍による虐殺や生体実験から、生存者同士の暴動、餓死、侵攻してきた米華軍と領内で戦闘を始めたソ連軍による虐殺や付帯被害等、間接的な被害を含む

*11:現在では当時朝鮮半島に存在した中朝連合軍は多くても100万-300万人ほどとされている。

*12:尚、ウィロビーは、朝鮮動乱が朝鮮戦争に発展した契機である中国の参戦を予測せず、誤った報告をマッカーサーへ上げ、これを元にマッカーサートゥルーマンに対し中国参戦を否定した。同じようにウィロビーは満洲反応攻撃に当たり、ソ連は目立った反応は起こさないだろうとマッカーサーに報告していることがわかっている。

*13:後の東朝鮮総統

元号

元号

 

「昭和」「化成」「天翔」の三つの元号についての簡易説明。

 

裕仁

昭和元年-昭和37年(ソ連対日反応攻撃で崩御

即位: 1926年12月25日-1962年11月1日

(35年311日)

宝算: 1901年4月29日-1962年11月1日

(61年186日)

 

明仁

化成元年-化成58年(後障害の闘病の末に崩御

即位: 1962年11月1日-2019年4月30日

(56年181日)

宝算: 1933年12月23日-2019年4月30日

(85年128日)

 

徳仁

天翔元年-

即位: 2019年5月1日-

宝算: 1960年2月23日-