天皇器官説序論
天皇器官説
天皇器官説(てんのうきかんせつ)は、大日本皇国の1972年憲法にて成立した憲法学説で、現在の皇国連邦を構成する国家群における基本的な国家観である。1947年憲法の象徴天皇制と日蓮主義を翻案した生命弁証法を理論的起点とし、2度の安法闘争と三体事件を経て平岡公威がそれらを一つの体系として再構成し、1972年憲法にて国家理念へ発展した。
「天皇は脳髄、官僚は神経、臣民は細胞」の言葉に代表されるように、「国家」を一つの「生命体」と見做し、「生存(自己保存)」延いては「増殖(自己複製)」を究極の国家目標とする有機的国家論(国家有機体説)のひとつである。
天皇器官説の成立過程において重要なのは、化成天皇が昭和天皇と田中角栄の統治を、それぞれ精神による統合と物質による統合として看破したことである。化成天皇はこの二つをともに国家統合の一形態として認めながら、いずれか一方を究極的原理とすることを退け、両者を包摂する第三の原理として「生命」を掲げた。生命弁証法と三体を結合することで、この構想は天皇器官説へと発展した。
思想的背景と日蓮主義
天皇器官説の思想的前史には、戦前戦中の日本で広まった日蓮主義がある。
日蓮主義の中心概念である立正安国は、正法を人々の人生および社会の基本原理として確立することによって、国家の平和と繁栄、人々の生活の安穏を実現しようとする思想であった。本土決戦期には、戦禍による絶望と国家存亡への危機感を背景として人口に受容された。
この思想的環境は、戦後の象徴天皇制および生命弁証法の形成にも影響を与えた。ただし、1947年憲法において日蓮の教説がそのまま国家原理となったわけではない。日蓮主義における「個人の変革と社会の変革を一体として捉える」という構造が憲法起草に携わった里見岸雄*1の手によって生命弁証法へと変換されたのである。
象徴天皇制
昭和天皇は、大日本皇国憲法において天皇を「臣民の象徴」として規定した。これは、本土決戦によって生じた昭和天皇の政治観と密接に関係している。
1945年8月15日の京都への反応攻撃は、すでに継戦派軍部に失望していた昭和天皇に、和平派の政治家や連合国に対する失望をも抱かせた。結果として日本は本土決戦へ突入し、石原莞爾の戦争指導の下で総力戦体制を構築し、連合国軍の関東上陸作戦を頓挫させて停戦に至った。
しかし昭和天皇は、本土決戦における臣民の献身を評価しながらも、かつて熱烈に開戦を支持した臣民への不信を完全には払拭できなかった。そこで昭和天皇は、戦前の立憲君主でも、大戦末期の親裁天皇でもなく、天皇自らが道徳的模範となることで臣民に自己規律を強制する存在となった。昭和天皇は清廉、勤勉、節制、公共への奉仕などを自ら実践し、それによって臣民にも同様の徳目を要求した。
この当時の象徴天皇制は、日蓮主義における「立正安国」の思想と結びつき、国家の再建を政治権力だけでなく構成員自身の人格的変革によって達成するという性格を帯びた。これは同時期の生命弁証法にも共通する。
生命弁証法
生命弁証法は里見岸雄によって体系化された思想であり、天皇器官説の理論的基礎となった。
生命弁証法は、生命を静的な存在ではなく、内部に異質性と対立を抱えながら、それらを統合することで自己を維持、発展させる運動として捉える。生命には、変化し続けることによって自己を維持する、また環境に影響を受けながら環境にも影響を与える、という一見矛盾した構造がある。
その基本的な運動は、「分裂 → 調和 → 統合」として理解され、統合された生命はさらに新たな分化と対立を生み出すことで発展するとされた。
生命における統一とは、部分の差異を消滅させることではない。異なる機能を持つ諸部分がそれぞれの役割を果たしながら、一個の全体として活動することが生命の本質であるとされた。従って、社会を「個人の集合」とは考えない。「個人→家族→地域→民族→国家→世界」という諸段階は、それぞれ孤立した存在ではなく、お互いに影響を与え合うより大きな生命的全体を形成する階層として理解される。ここから自由主義とは異なる人間観が導かれる。ただし、1947年憲法において日蓮主義がそのまま国家原理となったわけではない。日蓮の教説を直接的な宗教政策として採用するのではなく、人間の自己変革と国家の変革を連続したものとして捉える思想が生命弁証法へと転換された。
1947年憲法における生命弁証法は、象徴天皇制と同じく日蓮主義的国家観に強い影響を受けたものであった。
しかし、後に安法闘争を経て日蓮主義が衰退し、三体諸原理が登場し、さらに第三次世界大戦を経験すると、生命弁証法は日蓮主義の宗教的国家論から離れ、国家そのものの構造と存続を説明する理論へと発展していくことになる。
昭和天皇、精神の指導原理
昭和天皇は、1945年の日本本土決戦を経て成立した戦後の大日本皇国において、自ら天皇を象徴と規定しながら、天皇大権を有し、国家再建の基本方針を主導した。臣民には清廉と勤勉を求め、戦争によって疲弊した社会の再編を道徳的、経済的再建と一体のものとして進めた。政党を廃止し、山崎猛に大命を降して政権を組織させたことにより、天皇が国家の長期的方針を示し、内閣がこれを具体的な政策として実施する戦後政治の枠組みが形成された*2。
内政上の最大の課題は、本土決戦によって甚大な損害を受けた国土と生産基盤の復旧であった。都市、交通網、工場、農地等の損壊に加え、労働力と物資の不足が重なったため、政府は軍需施設の民需転換、鉄道、港湾、電力、住宅等の復旧、復員兵の生産部門への吸収を進めた。食糧事情も逼迫していたことから、戦後初期には米国から穀物を中心とする食糧支援を受け、配給制度を維持しつつ農業生産の回復を図った。これにより、飢餓と社会不安の拡大を抑え、経済復興に必要な労働力を確保した。
昭和天皇は全国各地への行幸を行い、戦災都市、農村、工業地帯、学校、復興施設等を視察した。行幸は復興状況の確認にとどまらず、戦時体制から復興体制への転換を臣民に示す象徴的行為でもあった。労働者、農民、学生、復員者等との接触を通じて勤労を顕彰し、清廉と勤勉を戦後社会の規範として定着させることが図られた。
復興初期には傾斜生産方式を採用し、石炭、鉄鋼等の基幹産業へ資源を重点的に配分した。これによって生産設備の復旧と重工業の再建を促した一方、資源配分の偏重から消費財不足と通貨膨張を招く弊害も生じた。その後は経済格差の是正と生産力の拡大を並行して進め、大土地所有や資本の過度な集中を抑制するとともに、農民、労働者、中小企業を含む広範な臣民が経済成長に参加できる社会構造を形成した。重化学工業、鉄鋼、電力、化学、機械工業等への投資に加え、高等教育、技術教育を拡充し、原子力、基礎科学、航空、電子工学等の研究開発を推進した。これらの政策が1955年以降の急速な工業化と復興、そして高度経済成長の基盤となった。
昭和天皇の外交は、太平洋協定による安全保障への参加と、日本独自の外交的自主性の確立を両立させることを基本とした。朝鮮戦争以前の日本は、再軍備を進めながらも周辺諸国から再侵略への警戒を受けており、その軍事力を国際的管理の下に置く必要があると考えられていた。
朝鮮戦争時の合衆国は、満洲に50発の反応攻撃が行った*3。この核攻撃はソ連の参戦を招き、戦争を米ソ両国の通常戦力を中心とする長期的な消耗戦へと転化させた。中国も甚大な損害を受け、米中ソの3国が疲弊した結果、極東には大規模な力の空白が生じた。
一方、昭和天皇は朝鮮戦争に際して、独断で旧朝鮮臣民保護を掲げて皇宮衛士総隊を警察予備隊に改称の上、朝鮮半島へ派遣した。この独自の軍事行動は、天皇が自らの判断で国外に軍事力を投入する意思を有することを示すものであった。これは周辺諸国にとっては、日本の再軍備が再び対外侵略へ転化する可能性を示す事件でもあり、日本への警戒を強める結果となった*4。
この相反する要求、すなわち日本を外部から防衛する必要と、日本による再侵略を防止する必要を制度化したものが太平洋協定であった。1951年に署名され、1952年に発足した同協定は、日本を巡る二重保証、つまり「日本防衛」と「対日防衛」を二つの柱とした。日本軍は日本の防衛に必要な戦力として存続を認められる一方、その運用を国際的な監視、管理の下に置くことによって、再び日本単独の意思で侵略戦争を行うことを防止された。
昭和天皇は、この体制を日本の恒久的な従属とは捉えなかった。太平洋協定の枠内で安全保障上の義務を履行しながら、日本独自の外交関係を拡大し、アジア及びアフリカ諸国との連帯を追求した。とりわけアジア及びアフリカ会議への参加は、日本が合衆国を中心とする集団安全保障体制に属しながらも、植民地主義からの独立を求める諸国と協調し、平和を希求する姿勢を示すものであった。朝鮮戦争に呼応して1954年から1958年にかけて断続的に発生した台湾海峡紛争への太平洋協定の枠内での日本軍出動も、地域の安定に寄与し、合衆国を始めとする西側諸国から評価された。
また昭和天皇個人は、インドのネルー、ユーゴスラヴィアのチトー、エジプトのナセル、インドネシアのスカルノらとの関係を深め、西側陣営と東側陣営の対立から一定の距離を置く第三世界外交を展開した。日本は太平洋協定の加盟国でありながら、第三世界に対して自らを単なる西側諸国の一員としてではなく、アジアにおける独立した大国として提示したのである。
こうした外交姿勢は、日本が再軍備を進めながらも、必ずしもかつての帝国主義的膨張へ回帰しているわけではないことを示す役割を果たした。さらに、日本は合衆国の通常戦力が朝鮮戦争によって疲弊する中、新たに獲得する反応戦力と再建された通常戦力を用いて極東の安全保障を担うようになった。
その象徴が1954年11月3日のゴジラ作戦である。日本は合衆国の黙認の下、独自の反応兵器の保有に成功した*5。戦後8年での反応兵器保有は世界に衝撃を与え、中ソ両国をはじめ、太平洋協定加盟国を含む太平洋戦争期に日本の侵略を受けた諸国から強い反発を招いた。しかし合衆国が通常兵力の再編に努める中で、日本は極東の防衛能力を担う国家として急速に重要性を増しており、太平洋協定各国は合衆国からの圧力で日本の反応兵器保有を追認した。
昭和天皇は反応兵器保有によって得られた軍事的地位を、直ちに米国への従属強化へ結びつけることなく、自主外交の基盤として利用した。日本は太平洋協定に参加しながら第三世界との関係を拡大し、東西両陣営の間で独自の外交的地位を形成した。この姿勢が加盟国から評価されるにつれて、日本を再侵略の危険から恒久的に監視する必要性は相対的に低下した。
その帰結が1960年の太平洋協定改定であり、「対日防衛条項」が削除された。これによって、日本軍を国際管理下に置き、日本による再侵略を防止するという第二次戦間期初期の制度的枠組みは大幅に縮小された。日本は太平洋協定によって防衛される国家から、太平洋地域の安全保障を自ら担う主体へと転換したのである。
昭和天皇の外交は、こうして日本の軍事的自立と国際協調を同時に追求した。太平洋協定から離脱するのではなく、その内部で日本の地位を段階的に引き上げ、第三世界との連帯を外交的資産として利用することによって、第二次戦間期の日本を国際管理の対象から地域秩序の主体へと転換した点に特徴があった。
昭和天皇の統治は、内政、外交政策の双方で、1947年憲法前文における「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」し「恒久の平和を念願」する精神を実践したと言える。
60年安法闘争と三体綱領
戦中から戦後にかけて強い影響力を持った日蓮主義に対しては、その国家観を批判する動きも形成された。特に、国家の存立と妙法蓮華経を直接結びつける思想が問題とされた。
1960年には、1947年憲法に残された仏教的、日蓮主義的要素をめぐる憲法論争が激化し、安法闘争*6へと発展した。
安法闘争は1947年憲法そのものを否定する運動ではなく、国家統合の根拠を仏法から切り離し、より世俗的且つ政治的、国家論的な原理によって再構成することを求めた。
この結果、日蓮主義は1947年憲法の直接的根拠から後退した。しかし、生命弁証法に組み込まれていた人格的変革と社会的変革の連続性は維持され、生命弁証法は次第に宗教的国家論から離れて、国家そのものの構造と存続を説明する理論へと向かった。
安法闘争の思想的総括として、1961年12月12日、川南豊作らによって三体綱領が提唱された。
三体は、国体観念、主体思想、全体主義から構成される。
国体観念は、国家の歴史的連続性を認識する原理である。皇統、歴史、伝統を通じて国家の同一性を把握し、国家を現在の政府や制度だけでは説明できない歴史的存在として捉える。
主体思想は、国家を外部から作用を受けるだけの客体ではなく、自らの意思によって行動する主体として捉える原理である。国家自らが存立条件を認識し、目的を定め、それを実現する能力を持つことを要求した。
全体主義は、国家を個人や集団の単純な集合ではなく、それらを包摂する一個の全体として把握する原理である。個人、家族、地域、職能、企業などはそれぞれ固有の機能を持ちながら、国家という全体の中で相互に結合するとされた。
三体は、それぞれ以下のように整理される
国体観念――過去から現在への国家生命の記憶
主体思想――現在から未来への国家生命の意思
全体主義――全細胞と全体との国家生命の感情
三体綱領は、日蓮主義に代わって国家そのものを説明する世俗的な原理を提示したが、この段階では三体綱領と生命弁証法はなお別個の思想潮流であった。
第三次世界大戦と生命弁証法の転換
1962年に第三次世界大戦が勃発すると、こうした思想状況は決定的な転換を迎えた。
東京核撃と昭和天皇の崩御は、本土決戦以来形成されてきた国家的神話に重大な衝撃を与えた。本土決戦では日本国家が滅亡の危機から生還したのに対し、超大国による全面反応戦争は、国家機構のみならず皇統そのものを一挙に失わせ得ることを示したのである。
この経験によって、日蓮主義的な救済と国家使命の結合は、国家の具体的な存続を保証する原理として不十分であると考えられるようになった。
一方、生命弁証法は新たな問題を獲得した。生命が自己を維持するだけでなく、次の生命へ自己を継承する存在であるならば、国家生命もまた現在の国家そのものを超えて自己を継承する構造を必要とする。
ここから、国家機能と皇統を単一の領域に集中させるのではなく、複数の国家へ分化させることによって国家生命を保存するという、後の侵略主義につながる発想が生まれた。
田中角栄、物質の指導原理
第三次世界大戦後、昭和天皇の崩御に伴って田中角栄が急速に台頭した。田中は第三次世界大戦と化成豪雪*7によって甚大な被害を受けた国土の復興に尽力し、基幹産業への投資、交通網整備、大規模公共事業、地方開発などを推進した。地域、職能集団、産業集団などへ利益を配分することで巨大な支持基盤を形成し、強力な政治手腕によって政界に多数派を形成して長期政権を維持した。
田中政治は、昭和天皇期から続く高度経済成長を引き継ぎ、日本に急速な経済発展をもたらした。その統治原理は、公共投資によって産業と雇用を拡大し、所得を地域集団、職能集団、産業集団へ配分し、そこから生じた需要を再び生産と投資へ還流させる利益の循環にあった。政治的統合を理念や制度だけでなく、物質的基盤によって実現した。
田中の国土政策は、すでに進行していた全総を基礎として、その規模と速度を大幅に拡大するものであった。日本列島改造論の下で、高速道路、新幹線、港湾、空港、電力網、工業基地などが全国的に整備され、人口と産業の地域的分散が進められた。
その中でも特徴的だったのが、平和的核爆発の大規模利用である。日本では核兵器の開発、保有によって蓄積された核技術を軍事目的だけに限定せず、巨大な地形改造や土木事業に転用する構想が発展した。田中はこれを国土改造の新技術として積極的に推進し、通常の土木工事では長期間を要する山岳の開削、運河建設、港湾造成などに平和的核爆発を利用した。
その代表例が三国峠の開削である。平和的核爆発によって峠を大規模に掘削し、関東と日本海側を結ぶ交通路を短縮するとともに、発生した大量の土砂を佐渡島との陸続き化に利用した。これは単なる交通施設の建設ではなく、山岳地形そのものを国家的交通体系に適合させる事業であった。同じ思想から琵琶湖運河の建設も進められた。平和的核爆発を利用して大規模な掘削を行い、琵琶湖を日本海側と太平洋側の物流体系へ組み込むことで、内陸水運を国土交通網の一部として整備した。こうした事業によって、日本列島の山岳、湖沼、河川、沿岸部は従来の地理的制約としてではなく、相互に接続可能な国家的生産基盤として再編された。平和的核爆発は、田中政治において核技術と経済開発を結びつける象徴となった。反応戦力によって国家の安全を確保すると同時に、その技術を平時の国土開発へ転用することで、軍事力と経済成長を一体化させる構想であった。
この国土改造は、生命弁証法における「新陳代謝」の具体化とも解釈された。古い交通障壁や地理的分断を破壊し、そこへ新たな交通路、産業、都市を組み込むことによって、国土そのものを一個の国家有機体として再編するのである。
首都は化成改元とともに東京から京都へ移転されていたため、田中は京都を中心とする多極的な国土構造を整備した。東京は首都機能移転可能都市(副首都)として再建され、人口は第二次戦間期の規模の概ね半分程度に抑えられた。大阪も復興したが、京都へ人口を供給する巨大な衛星都市としての性格を持った。副首都はその後も整備され、1972年に北京都、福京府が、1980年に西京都が置かれた。1989年には仙京府が指定されることになる。これらは首都機能の代替拠点として行政、軍事、産業、学術などの機能を集積した。1965年9月1日には本土復帰を果たしたばかりの旧沖縄県の那覇市も南京都に指定されており、琉球州の政治、経済、交通上の中枢となった。
田中期の外交政策は、太平洋協定だけでなく国際連合における日本の地位の上昇とも結びついていた。
1963年、第三次世界大戦後の国際秩序再編に伴って国際連合安全保障理事会が大幅に改組され、日本、オーストラリア、インド、ブラジルが新たな常任理事国に選出された。一方、合衆国とフランスは常任理事国としての地位を凍結され、ソ連は国際連合から除名された。これによって安全保障理事会は、第二次世界大戦の戦勝国を中心とした旧来の国際秩序から、戦後のアジア、太平洋、南アメリカを含む新たな勢力均衡を反映した機構へと変化した。日本はアジアの主要国として国際連合と太平洋協定の双方において中心的地位を占めることとなり、田中外交はこの二つの国際機構を使い分けながら日本の影響力を拡大した。特にオーストラリア、インド、ブラジルとの常任理事国協調は、田中外交における第三世界政策の重要な基盤となった。昭和天皇期の第三世界との連帯は、田中期には国際機構における共同意思決定と安全保障協力へ発展し、日本はアジア・アフリカ・ラテンアメリカ諸国を結びつける中心的役割を担った。
田中は太平洋協定における日本の主導権確立を外交政策の中心に据えた。昭和天皇が太平洋協定への参加と第三世界との連帯によって日本の自主性を確立したのに対し、田中は第三次世界大戦によって生じた国際的な力関係の変化を利用し、太平洋協定そのものを日本の外交的影響力を行使する機構へ転換した。第三次世界大戦によって日本はソ連の主要な攻撃対象となったため、対ソ安全保障は外交政策の前提であった。一方、旧新潟県出身である田中は感情としては、第二次世界大戦によって日本が受けた新潟核撃への対米報復を重視し*8、合衆国の太平洋における影響力を縮小させ、日本を中心とする地域秩序の形成を目指した。
この方針を決定的にしたのが東西戦争*9への介入であった。1964年の東京湾事件を契機として、田中政権は太平洋協定軍を北米へ派遣した。内戦を合衆国の国内問題として処理するのではなく、合衆国の太平洋における政治的、軍事的影響力を解体し、戦後の太平洋秩序を再編する機会と位置づけたのである。
日本軍を中心とする太平洋協定軍は北米に展開し、当初は、治安維持を中心に担ったが、ロバート・F・ケネディ大統領が北爆やチャミザル紛争を引き起こし、カナダやメキシコを紛争に介入させると、1969年に元合衆国副大統領リチャード・M・ニクソンを擁立してアメリカ合州国を建国させ、合衆国を打倒する為の軍事介入を本格化させていく。これは日本が外国から防衛される側から、国際秩序そのものを軍事力によって再編する側へ移行したことを示す事件となった。1971年の国際連合アルバニア決議が採択され、合衆国が国連から脱退、ソ連との関係を模索すると、1972年には合衆国を太平洋協定から追放し、代わって合州国を加盟させた。さらにハワイ以西の合衆国太平洋領土を日本の勢力下に置き、1973年に北米から撤退したことで、田中が掲げた対米報復は一応の完了をみた。
田中期には反応兵器外交も積極化した。日本は対ソ連戦略の一環として反応技術の国際的拡散を進め、1964年にはユーゴスラヴィア、1974年にはインドへの反応技術移転を行い、タイ王国に対しては、クラ運河建設を持ちかけた。
この政策は平和的核爆発による国内開発と表裏一体であった。日本国内では核技術を国土改造、能源、産業に利用する一方、国外では反応技術を供与することで第三国の戦略的自立を支援し、ソ連に対抗する国際的勢力を形成した。反応兵器は田中外交において、抑止力であると同時に経済、技術、外交を結びつける手段となった。インドネシアとフィリピンが国際連合と太平洋協定を脱退してマラヤ連邦と結成したマフィリンドは地理的にマラッカ海峡を独占している為、海上交通路に依存する日本にとっての長年の懸案であった。1974年のクラ運河建設開始は、マフィリンド率いる国際連邦との対決を見越したものである。
1972年2月、田中は中華人民共和国を電撃訪問した。同年5月には中華民国を太平洋協定から除名し、日本軍は台湾へ侵攻した。これによって蒋介石の大陸反抗は頓挫し、日本は中国大陸をめぐる戦後秩序にも直接的な影響力を行使することとなった。
田中の外交政策は、化成天皇が求める対ソ報復と衝突した。第三次世界大戦では、日本軍が留釧の壁を突破して蝦夷島全域を解放し、択捉島まで進出した。しかし得撫島への上陸作戦ではソ連軍部隊による反応自爆によって日本軍上陸部隊が壊滅し、北進は停止した。皇族側にとって樺太島、千島列島の完全解放は未完の戦争目的であり、ソ連への報復こそが戦後秩序を完成させる課題であった。これに対して田中は、国際連合、太平洋協定、反応兵器外交、北米介入を組み合わせ、まず合衆国の太平洋における影響力を排除することを優先した。
田中にとって戦後秩序とは、日本が国際機構と軍事力を掌握して自ら国際環境を形成することであり、皇族側にとっては第三次世界大戦の未完の戦争目的を完成させることであった。
この相違は外交政策の対立を越え、国家の最終的な政治主体をめぐる対立へ発展した。
1972年10月23日の新憲法制定は、田中の権勢を削ぐ結果となった。この結果引き起こされたのが田中命脈問題であり、物質的成長と利益循環によって形成された田中政治を、天皇器官説と三体の下でいかに制度として継承するかが焦点となった。
全細胞共闘と70年安法闘争、三体の再発見
1968年5月27日に田中政治への反対と改憲を巡り、全細胞共闘*10が結成されると、生命弁証法と三体の語彙は再び政治的意味を持つようになった。凡ゆる徳目を実践していた昭和天皇の悲劇的な末路は、日蓮主義への疑念となり、その日蓮主義の影響を受けた憲法への疑念となった。化成天皇はそこに目をつけ、改憲議論を喚起した。仏教界は反発したが、田中にとって数ある支持母体の一つに過ぎず、また大衆迎合主義的な側面を持つ田中は、この改憲議論の高まりに指導力を発揮できなかった。
1969年1月18日の東大安田講堂事件、1970年6月14日から始まる70年安法闘争を経て、平岡公威による第二次三体事件に至る過程で、三体綱領は三体基本則と呼び変えられ、単なる過去の政治綱領ではなく、生命弁証法と結合し得る国家理論として再発見された。1970年11月25日、平岡公威は陸域侍衛隊市ヶ谷基地で演説し、象徴天皇制、生命弁証法、三体基本則の理論的統合を提唱した。
天皇器官説
天皇器官説は、生命弁証法を基礎として形成された国家有機体説の一種であり、国家を一個の生命体として把握する憲法学説である。その成立過程は、1947年の大日本皇国憲法における生命弁証法と象徴天皇制、1960年の60年安法闘争、1961年の第一次三体事件、1970年の70年安法闘争と第二次三体事件を経て、1972年の憲法改正によって制度的に完成した。その基本命題は、国家を固定した法的共同体ではなく、分化と統合を繰り返しながら存続する生命体とみなすことにある。生命弁証法の「分裂、調和、統合」は、国家においても同様に作用する。社会は個人、家族、地域、職業、企業などへ分化するが、それらは相互に連関し、国家というより高次の統一体を形成する。この構造を表現したのが「天皇は脳髄、官僚は神経、臣民は細胞」という命題である。天皇は国家生命を統合する中心器官であり、官僚機構は国家意思と情報を各部へ伝達する神経系、臣民はそれぞれ固有の機能を担う細胞とされた。したがって、天皇は国家の外部に立つ絶対的支配者ではなく、国家生命の内部において全体を統合する中心的器官である。この構造を政治原理として定式化したものが三体基本則である。1972年の憲法改正によって、天皇器官説はこの三体基本則と象徴天皇制、生命弁証法を統合する国家原理として明文化された。
天皇器官説は、当初、国家の究極目的を「生存」に求めた。しかし1962年の第三次世界大戦は、その概念を根本から変化させた。反応兵器によって都市、政府、産業、人口、さらには皇統までも一挙に失われ得ることが明らかになったためである。第三次世界大戦における昭和天皇の崩御は、一個の国家に国家機能と皇統を集中させることの危険性を明らかにした。日本そのものの予備の必要性が叫ばれたのである。
導き出されたのは、生命が自己を複製することによって継承されるのであれば、国家もまた自己を複製することによって存続し得るという考え方である。
ここから、国家生命を一つの領域や一つの政治機構に集中させてはならないという考えが生まれた。人口、文化、産業、技術、行政能力、皇統などを複数の地域に分散させ、一部が破壊されても国家生命全体が再生できるようにする。増殖とは、衛星国を確保することではない。日本を複製し、人口、皇統、文化、産業、技術、行政能力、軍事能力など、国家を国家たらしめる諸要素を複数の地域に移植する。例えば大日本皇国本国が完全に破壊された場合にも、別の地域に形成された予備によって日本そのものを維持、再生できるようにするのである。
従って増殖の第一義的目的は衛星国の建設や領土拡張ではなく、国家滅亡に対する冗長性の確保にあった。その基本論理は、単純明快である。
一つの日本が滅びても、別の日本が再生する。故に日本を複数の場所に存在させなければならない。
日本を母国家とし、海外領土に皇族を送り込み、国家機能と皇統を備えた複数の「皇国」を形成する発想が生まれた。
重要なのは、日本の国家生命を外部へ複製することである。土地を占領することだけでは増殖とはいえない。占領地域に日本の政治制度、行政能力、産業、人口、文化、皇統との関係を移植し、そこに日本の国家生命を維持できる構造を形成して初めて増殖が成立するとされた。そのため、日本の対外膨張は「本土を中心として周辺地域を支配する」という同心円的な帝国建設とは異なり、日本そのものを複数の地域へ分散配置する政策として説明された。この思想において、海外への進出は本土から外へ向かう一方向の拡張ではない。
本土に存在する日本を、外部へ移植する → 予備を形成する → 予備を自立可能にする → 必要に応じて日本と統合するという循環であった。
この思想が初めて本格的な制度として実施されたのが、1972年の旧合衆国構成州ハワイ州であった。合州国から譲渡された布哇は、直ちに本土へ併合されたのではなく、まず夏威夷庁として外地に編入された。その後、布哇は夏威夷臣民君主国へ移行し、最終的に布哇皇国となった。この段階的な発展には、増殖の考え方が反映されていた。すなわち、新たに獲得した地域を最初から本土と同一化するのではなく、まず日本の国家生命を移植するための独立した器官として形成し、その行政能力、経済基盤、人口構造、文化的統合を発達させる。そのうえで、十分な生命力を獲得した段階で新たなる皇国として独立するのである。布哇は単なる衛星国ではなく、海外に初めて形成された日本の予備であった。この制度は後に、臣民君主国を経て皇国化するという海外統治方式の原型となった。
第四次世界大戦では、皇国は外満洲を除くウラル以東のソ連連邦構成主体の内、ザバイカルSSR領域と極東SSR領域を獲得した。戦後にはアジア通貨危機を契機として、マフィリンド紛争によって国家機構が解体されていた南アジア東部*11へ支配を拡大し、各地に臣民君主国を置いたうえで、条件の整った地域を皇国として再編した。こうして天皇器官説は、核戦争に対する国家の生存戦略から、国家生命そのものの予備を外部へ拡大する増殖戦略へと転化した。
化成天皇、生命の指導原理
化成天皇は、昭和天皇と田中角栄の統治を一つの対照として捉えた。
昭和天皇は、大日本皇国憲法で天皇を臣民の象徴として規定し、自らの清廉と勤勉、節制、公共への奉仕を臣民に強いることに成功した。田中角栄は、基建投資や大規模公共事業を通じて特定の職能集団、地域集団、社会集団に利益を分配し、政界では買収と恐喝の政治手腕を以て自派閥を拡大し、常に多数派を形成した。
それぞれを精神と物質による支配と看破した化成天皇は、両者を包摂し、相互作用させ、全体として維持、超克する、生命としての指導原理を選択した。
精神も物質も、それ自体では生命全体を説明できない。精神のみを絶対化すれば、国家の物質的基盤を軽視することになる。物質のみを絶対化すれば、国家を利益配分の機械へと還元することになる。
この思想的転換によって、生命弁証法は単なる哲学から国家の統合原理へと発展し、三体基本則はその生命を国家の構造として記述する枠組みとして再評価された。
国家は保存されるべき機械ではない。不断に変化し、自らを更新し、環境へ適応し、必要に応じて構造を変えなければならない。したがって政治の目的は、既存制度を永久に維持することではなく、国家生命を健全な状態に保つことである。
1973年の石油危機以後、行政、産業、財政などの再編は「新陳代謝」として正当化された。古い制度を単純に破壊するのではなく、その機能を分析し、必要なものを残しながら新しい構造へ移すことが国家の生命活動とされた。1974年10月9日の田中命脈問題は、天皇器官説の実践的性格を示す事件となった。
化成天皇は田中政治を国家統合上の病理として認識する一方、その経済的、行政的機能まで否定することはなかった。田中を直ちに政治から排除するのではなく、なお政権を担わせたことは、政治的妥協ではなく、部分を排除するのではなく全体の中に位置づけ直すという生命弁証法における「新陳代謝」の実践として理解された。事実、田中は内政においては日本列島改造論に基づく全総を軸に引き続き強力に改革を推し進め、外交では国際連合常任理事国の政治指導者として国際連邦との冷戦を遂行した。1980年代以降の行政改革にもこの用語が用いられた。
生命体において、一つの器官が全体と緊張関係にあるからといって、それを即座に切除することが全体の利益になるとは限らない。重要なのは、各器官の機能を維持しつつ、生命体全体の均衡を回復することである。
同時期には編入された旧ハワイ州や今後増加が見込まれる海外領土を念頭に内務省を拡大し「適応免疫」の概念が治安維持に導入された。国家は外部環境から刺激を受け、それを識別し、国家生命にとって有害なものに対して防御しなければならないとされたのである。
11月1日の結束主義体制成立、11月4日の第四次世界大戦勃発を経て、化成天皇は国家生命の統合をさらに中央へ集中させた。同年12月24日には「いわゆる田中氏の政治的影響を一切排除する」と宣言し、二階堂進へ大命降下し、かつての昭和天皇を思わせる親政による戦時体制へ移行した。この親政は、天皇を国家の外部に置く絶対君主制とは異なっていた。天皇器官説において天皇はあくまで国家生命の中心器官であり、官僚機構、臣民、軍、産業、地域社会から情報を受け取り、それを統合して国家意思を形成する存在である。
新陳代謝と適応免疫
大日本皇国期には、生命体としての国家を維持するため、社会そのものにも生命現象の概念が適用された。
「新陳代謝」の名の下に、社会保障制度の大幅な再編、資源配分、生命の選別などが行われ、国家にとって有用な機能を維持することが政策の基準とされた。
また、国家生命が外部環境に適応する機能は「適応免疫」と呼ばれ、対外的な警戒主義、排外主義と結びついた。これは後に、大日本帝国以来の拡張主義と結合し、天皇器官説の持つ排外的、膨張主義的側面として批判されることとなった。
思想史的意義
天皇器官説の成立過程は、単純な君主制の発展として理解することはできない。
その出発点には、戦前戦中の日蓮主義があった。そこから、立正安国に含まれていた人格的変革と国家再建の思想が、1947年憲法における象徴天皇制と生命弁証法へ転換された。
安法闘争は、その宗教的基盤を国家理念から切り離し、三体綱領は、日蓮主義に代わる世俗的な国家論を提示した。
第三次世界大戦と昭和天皇の崩御は、国家を単一の政治体として維持するだけでは不十分であることを示し、生命弁証法を国家の自己維持、自己継承の理論へと発展させた。
そして田中角栄の台頭は、国家統合における「物質」の力を明らかにした。これに対し、昭和天皇は「精神」による統合を体現していた。
化成天皇は、この二つを対立する二つの統治原理として捉え、いずれかを選択するのではなく、両者を生命の内部に包摂した。そこから、生命弁証法と三体綱領を象徴天皇制に結合するという思想的再編が生じた。
総論
従って天皇器官説は、日蓮主義→1947年憲法の象徴天皇制、生命弁証法→昭和天皇による精神の支配→安法闘争による日蓮主義の排除→第一次三体事件→第三次世界大戦による断絶→田中角栄による物質による支配→化成天皇による精神と物質の超克→第二次三体事件→1972年憲法による天皇器官説の成立という思想史的過程の上に成立した。
その最終的な命題は、国家を権力機構でも個人の集合でもなく、自己を維持し、分化し、適応し、統合し、さらに自己を複製する生命体として捉えることである。
母国家(大日本皇国)から分化した娘国家群(皇国群)は、生命弁証法における「分裂」に相当する。しかし分裂は単なる解体ではない。娘国家同士が相互に結合することによって「調和」を形成し、それらがさらに一つの政治的全体へ統合されることで「統合」が成立する。
1999年8月13日に発足した皇国連邦は、この理論を制度化した。
本稿では、かつてのドイツ国の国家社会主義とも比較されるこの狂気の思想及び運動を、第二次世界大戦の一局面である日本本土決戦と合衆国による反応兵器使用まで遡り、3度の世界大戦と3人の日本の指導者、3つの理論を中心に論じた。
2000年代以降、大日本皇国を中核とする皇国連邦は、スラヴ復讐主義を掲げる両スラヴィア、アーリア人至上主義を掲げる統一バーラトとの熾烈な冷戦を遂行していた。皇国連邦及び両スラヴィアの反応兵器保有数の水準に統一バーラトが達した時、3国は他2国の連合を恐れ、無限の反応軍拡の坩堝に陥った。後の歴史は諸氏も知るところである様に、3国は、あの忌々しい第六次世界大戦を引き起こし、世界人口の半数を殺傷して滅亡した。
今回は皇国連邦の天皇器官説を取り上げたが、しかし、もしもあの時、3国の内、1国でも「生存」した場合でも、その人類史は、今と同等かそれ以上の暗く冷たいものになっていたであろう。
(カール・レーフラー/「天皇器官説」より抜粋)
*1:日蓮主義の創始者田中智学の三男。
*2:内閣を介した間接的な統治ではあるが、開発独裁の一種と見做される。
*3:第二次世界大戦の日本本土決戦において日本を無条件降伏に追い込めなかった当時の合衆国の政治的敗北は、同国の国際的威信を大いに傷つけた。この失点を挽回するために共和党政権でありながら、前任の民主党トゥルーマンの外交政策を概ね受け継いでいたデューイ大統領は、連合国軍総司令官マックアーサー元帥の無謀な進言が受け入れた。
*4:また国際世論を考慮して当時派兵の可否で紛糾していた国内においても大いな衝撃を以て受け入れられ、山崎政権の昭和天皇への従属姿勢がより明確なものとなっていった一方、第二次戦間期の日本が自主外交を模索する契機となる。一部ではこれを後の三体綱領における主体思想の起源と見る主張がある。
*5:山崎首相は、このゴジラ作戦の成功を花道に内閣を総辞職した。後任は重光葵。
*6:「安法」は「立正安国」の「安」と「妙法蓮華経」の「法」に由来する。
*7:1962年(昭和37年)11月末から1963年(化成元年)2月初めまで、約1か月にわたり瑞穂州加賀県を中心に悠紀州から主基州にかけての広い範囲で起こった雪害。
*8:他にも海上交通路の保持の観点から台湾や合衆国太平洋領土の獲得も就任早期から視野に入れていたとされる。
*9:第二次アメリカ内戦
*10:「細胞」という名称そのものが、社会を生命体の構成単位として捉える思想を反映していた。
*11:第二次世界大戦中の連合国の呼称は東南アジア。日本は歴史的経緯からこの呼称を嫌う。

















